1、再臨の約束
 「再臨」というのは、イエス・キリストが再びこの地上に来られることを言います。神の御子である主イエスは約二千年前、人としてこの地上に来てくださいました。ユダヤの国のベツレヘムに赤ん坊となって生まれました。三十歳を過ぎて、ご自分が神の子、救い主であることを、その教えと奇蹟によって人々に示されました。そして、私たち罪と死に束縛されている者を解放し、その罪を赦し、贖うため十字架で命をささげ、三日目に死人の中から復活しました。復活の後、多くの人々にご自分を示された後、天に帰りました。キリストは、今、父なる神のもとに帰り、父なる神の右の座について、そこで、私たちのためにとりなしをし、また、私たちを導いてくださっています。


 ヘブライ人への手紙はこう言っています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4章14-16節)これは読むたびに慰められるみことばですね。私たちは、この地上で、様々な事柄で苦しみ、心に痛みを覚えます。それをどこにも持っていくことが出来ず、暗い谷底に落とされたような気持になってしまい、四面楚歌、八方ふさがりという状況に落ち込むこともあります。もうどこにも歩く道がないかのように考えてしまったりします。しかし、そんな時も、信仰をもって見上げるなら、天が開いているのです。
そこにキリストおられて、私たちを守り助けようとして待ち構えているのです。キリストは、天に留まり続けていたお方でなく、この地上に降りて来て、罪は別として、私たちと何一つかわらない苦しみや痛みを体験しました。だからこそ、キリストは、今、天にあっても、地上の私たちの苦しみ、痛み、弱さを知ってそれをあわれみ、いやし、強めることができるのです。いつ、どんな時でも、とりわけ、礼拝で天を仰ぐ時、そこに生きる苦しみにあえいでいる者たちをあわれみ、理解してくださる主イエスがおられるのを覚えるのはなんという慰めでしょうか。


 私たちは、この慰めを今、味わっていますが、将来、もっと素晴らしいことを体験します。それが再臨です。キリストは、天からもう一度降りてきて、私たちを天に迎えいれてくださるのです。聖書はそのことを何度も、何度も繰り返し約束しています。
主イエスは最後の晩餐の時、弟子たちに言われました。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章1-3節)主イエスは、最後の晩餐の時、弟子たちに世を去る時が来たことをはっきりと告げました。しかし、それは永遠の別れではありませんでした。主イエスは、イエスを信じる者たちのところにもう一度帰ってくると約束されたのです。
 主イエスがもう一度来てくださるというのは、イエスの復活のことをさしているとか、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに臨んだのが再臨なのだと言う人もありますが、そうではありません。主イエスがよみがえって天に戻る時の様子が使徒の働きにこう書かれています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」(使徒1章9-11節)天使は、イエスの復活の後に、イエスの再臨を約束しています。主イエスの再臨の様子は、イエスが雲に包まれて昇天した時と同じように、神の栄光に包まれて、目に見える形で天から降りてこられるのです。弟子たちは、イエスの復活の後も、ペンテコステの日に聖霊を受けた後も、主イエスの再臨を待ち望んできました。
 主イエスについての約束、またイエスが私たちに約束されたことはどれも、すべて成就しています。イエスは聖書の預言のとおりに生まれ、聖書にしるされているとおりに十字架で死に、聖書に予告されていたように復活しました。イエスの約束のとおりに聖霊がくだり、教会が誕生しました。イエスを信じる者はその約束のとおりに救われ、永遠の命を受けています。福音が全世界に宣べ伝えられるとのことばの通り、キリストの福音は全世界に伝えられています。聖書のことば、主イエスの約束はどれひとつとして、成就しなかったもの、守られなかったものはありません。ですから、イエスが再臨されるという約束もかならず実現するのです。
主イエスが再臨を約束されてからもう二千年以上が経ちました。まだその時が満ちていないのですが、時が満ちつつあることは、誰もが感じています。キリストの再臨の日がいつであるか、それは、私たちには知らされていません。しかし、再臨はかならずあり、その日は近づいているのです。聖書の一番最後にも再臨の約束があります。「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)このイエス様のおことばに、私たちも、「アーメン。主イエスよ、来てください。」とこたえていきましょう。


2、再臨の目的
 キリストが今から約二千年前、私たちの世界に来られたのは、私たちの罪を贖うという救いの根拠を実現し、私たちが救われるために助け主である聖霊を与えてくださるためでしたが、キリストが再び来られる時には何をなさるのでしょうか。聖書は、キリストが再び来られる時、その救いを完成してくださると教えています。
 私たちの救いは、聖霊に導かれて「み言葉を聞くこと」から始まりました。イエス・キリストを信じる時、私たちは神の子として生まれ、神からの新しい命によってあたらしく人生を生きなおすのです。この新しい命が霊的な面に表われるのが「聖化」で、それが肉体に表われるのが「いやし」です。しかし、私たちの聖化も、いやしも、この地上では完成しません。それはキリストの再臨によってこの世界のすべての悪が滅ぼされて、私たちが朽ちない体に復活する時に神の救いの御業は完成するのです。


私たちが地上にいる間は、どんなにきよめられても、私たちから弱さや失敗がなくなることはありません。弱さは強められ、失敗は赦されますが、きよめられるにつれて、むしろ、自分の弱さをより自覚して神に頼り、失敗から学んでさらにきよめに向かうのです。きよめられるというのは、どんな誘惑にも決して会わないということではなく、神の助けによって誘惑に打ち勝っていくことなのです。私たちは神によって新しく生まれることによって罪の刑罰から救われ、聖化によって罪の力から救われますが、キリストの再臨の時、罪の存在そのものから救われるのです。
 神は、私たちの肉体をいやし、生活を祝福してくださるお方ですが、どんなに病気がいやされても、私たちは必ず死を迎えなければなりません。どんなに生活が祝福されても、世を去る時には地上の祝福は地上に置いていかなければならないのです。キリストの再臨の時、私たちは死にも勝利して、いやしが完成するのです。その時、私たちは「将来わたしたちに現されるはずの栄光」(ローマ8章18節)に入ります。神の子とされた者に与えられる「神の子供たちの栄光に輝く自由」(ローマ8章21節)を受けるのです。キリストが復活した時に受けたのと同じ「栄光のからだ」を受けるのです。私たちの魂はすでにイエス・キリストの血によって贖われていますが、再臨の時には、私たちのからだも贖われるのです。「私たちのからだの贖われること」(ローマ8章23節)とあるのはそのことを意味しています。フィリピ人への手紙には、このことが、もっとわかりやすく書かれています。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3章20-21節)
 キリストの再臨の時には、私たちのからだが贖われるだけでなく、この世界全体が贖われるのです。神がもたらしてくださるものは「全体的いやし」です。ローマの信徒への手紙8章には被造物の救いということについて記されています。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマ書8章19~25節)
神によって創造された被造物のすべてが、キリストの再臨によって救われることを待ち望んでいるのです。社会的ないやしやエコロジカルないやし、つまり、地球環境のいやしということがあって、私たちの精神的、また肉体的な健康が成り立つということもできるでしょう。私たちの住む地球は、水が濁り、空気が汚れ、有害な放射線が降り注ぎ、地球の健康状態はかなり悪化していています。学者たちは、このままなら、あと千年したら、地球は人の住めるところではなくなると言っていますし、ある人たちは千年ももたないだろうという人もあります。神は地球に人を置き、人間に地球を守り、正しくそれを治めるよう命じられたのですが、人間は罪を犯し、その罪が、人間の心や社会ばかりでなく、自然界をも損なってきました。ですから、この世界が回復するためには、まず人間が回復されなければならないのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(ローマ8章19節)というのはそういうことを言っています。私たちの救いが完成する時、自然界も、被造物のすべてがまったく新しいものになるのです。ローマ8章21節に「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」とある通りです。神は、この世界全体の回復をすでに計画し、それをキリストの再臨によって実現してくださるのです。
 キリストの再臨の時に私たちの救いが完成するというのは、今、私たちが今持っている救いが不十分なものであるとか、将来の救いがあやふやものであるとかいうことではありません。神の救いは完全で、キリストが与えてくださった救いは、決して中途半端なものではありません。今、救われている者は、かならずその救いが完成するのです。今、受けている救いは、将来の救いを保証するものです。しかし、救いの完成にいたるまでには、なお、時が必要です。神は、イエス・キリストを信じた者がその瞬間に天国に移されるようには計画されませんでした。信仰を与えられた者をこの世に召して下さり、この世にあって福音を伝える者としてくださって、神の国に生きる人々を生み出し、神の御心を行って生きるようにしてくださるのです。この地上で、聖霊の導きと恵みに育まれてはじめて、キリストの再臨の時に与えられる栄光の恵みにあずかるようにと、定めてくださったのです。神の計画は万全です。神の恵みにはすべてが備えられています。神の救いの計画に身を任せて、再臨の時を待ちましょう。


3、再臨の希望
 イエス・キリストがもういちど来て、私たちの救いを完成してくださる、これは私たちにとって大きな希望です。もし、この希望がなかったら、私たちは、この世界で何の目標も、解決も得られないまま終わってしまうでしょう。
 神はこの世を愛し、そのひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちは、イエス・キリストを信じて、新しい歩みをはじめました。神の愛を知り、人を愛することを学びました。しかし、なお、罪が存在するこの世界で、さまざまな疑問に悩まされます。神が私たちを愛してくださっているのに、なぜ、この世には苦しみや痛みがあるのだろうか。神は正しいお方であるのに、なぜ、正しい者たちが苦しみ、悪者が栄えるのだろうか。ある人々は自分の思いどおりに歩んで、人を傷つけても罰せられないのに、ある人々は人を愛して控え目にしているのに、いつも傷を負う側に立たされるのだろうか。神を信じているという者がなぜ自らの命を絶ったり、とんでもない悪事に手を染めたりするのだろうか。どうして、ある人は健康で、豊かで、人生をエンジョイしているのに、ある人は、病気や障害を抱えて人生を送らなければならないのか。ある人は百歳までも生きるのに、なぜ、ある人は、人生の半ばで召されていくのか。古代から今にいたるまで、私たち人類は、こうした人生の疑問の中に生きてきました。
 もし、キリストの再臨が無ければ、私たちのクエッション・マークは永遠にクエッション・マークのまま終わります。しかし、キリストは、再臨の時、私たちの一切の疑問を解決してくださいます。キリストは、その時、すべての人を正しく裁き、報いを与えてくださいます。正しい者には栄光を、悪者には恥を与えるのです。
 第二次大戦中、ユダヤ人はホロコーストを体験しました。ナチスから逃れて、かろうじて生き延びた人々も、食べ物がなく飢えと闘わなくてはなりませんでした。しかし、そんな中でも、ユダヤの人々は、過越しの祭りを祝うことを忘れませんでした。過越しの祭りは、過去の神の救いを感謝するだけでなく、将来の神の救いを待望するものだったからです。ある家で、過越しを守ろうとしましたが、ろうそくがありません。それで、父親がバターを燃やしてろうそくの代わりにしました。それを見た子どもが、「お父さん、うちには食べるものが無いのに、どうしてバターを燃やすの」と聞きました。父親は、言いました。 
「息子や、人は食べものが無くても生きていける。しかし、希望なしには生きていけないんだよ。このともし火は、私たちに希望を教えてくれるのだ。」そうです。人は、希望なしには生きていけません。私たちはキリストの再臨の希望によって生きることができます。パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8章24節)と言っています。キリストの十字架も、復活も、多くの人が目にし、聖霊の働きも、信じるものはそれを体験しています。しかし、再臨は、将来のことですから、当然誰も目にしていません。しかし、目にしていないから、ないのではありません。パウロはこう言っています。「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8章24-25節)聖書が私たちに教え、励まし、勧めているように、信仰に忍耐を加えましょう。その時、私たちは失望に終わることのない希望(ローマ5章1ー5節)を手にすることができるのです。キリストが救い主であり、きよめ主であり、いやし主であることを知っている者は、キリストが王の王、主の主であることを信じ、このお方がもういちど来てくださる日を待ち望むのです。


4、アウグスティヌスの「告白録」から

「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。
ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白録』第1巻1章)
アウグスチヌスは、若い頃から多情多感の放縦な生活を送り、母親の信頼を裏切り、魂が満たされないまま、苦しく悶々とした生活をつづけていました。しかし神を知ることで、ようやく魂の安らぎを得ることができるようになったのです。
彼の母であるモニカは、毎日、息子のために祈っていました。彼が改心したのは、別荘で瞑想にふけっている時でした。有名な話ですが、隣家で遊ぶ子供たちが「取りて読め、取りて、読め」と歌っているのを聞きました。
彼は、それに従って聖書を開くと、パウロの書簡が目に入ってきたのです。
「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして肉に心を用いてはなりません」(ロ-マの信徒への手紙13章13-14)
この節を読み終わった瞬間、いわば安心の光とでもいったようなものが、心の中にそそぎこまれてきて、すべての疑いの闇は消え失せてしまったと告白録で述べています。(『告白録』第8巻29章)
神を知ることは、早い方がいいと思います。
でも、誰にとっても、今からでも遅くありません。
お腹を満たすものは、おいしい食べ物です。
心を満たすものは、温かな愛です。
愛には、二つあります。人間の愛と神の愛。
神の愛は、人間の愛より、はるかに大きいものです。
神の愛が心にそそがれるなら、私たちは平安に満たされます。


第23章 救いの御業の完成 キリストの再臨を待ち望む 理解のために


1) イエス・キリストは、私たちの苦しみや悩みをすべて知っておられると聖書には書かれていますが、それはなぜですか。

2) イエス・キリストの再臨とは何ですか。キリストの再臨によって何が行われると言われていますか。

3) イエス・キリストは、「私が与える希望は失望に終わることがない」と言われましたが、キリストが与えてくださる希望とはどのようなものでしょうか。

4) アウグスティヌスが「告白録」で述べているような心の平安は、どのようなものだと思いますか。