1、天の故郷
  日本の古典に、「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり。」とあるように、人生が旅であり、私たちは旅人であるという考え方は、日本人にはなじみ深いものです。しかし、同じように人生を「旅」と捕らえても、日本的なものと、聖書とでは、視点が違うように思います。日本の思想では、人生の旅の行き着く先が見えてきません。しかし、聖書は、はっきりと行き先、終着点をしめしています。それは「天のふるさと」です。
  「ふるさと」というのは「生まれ故郷」と言うように、そこで生まれたところを指します。さらに言うならば、故郷とは本来私たちが住むべきところであり、心が安らぐ居場所と言ってもよいでしょう。主イエスが私たちのためにしてくださったことは、私たちに天のふるさとに住むことが出来るように、その道を拓いてくださったということでもあるのです。
主イエスは、ヨハネによる福音書で次のように言われました。「 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章1~3節)
イエス様は、私たちのために天の故郷という住む場所を用意してくださっているのです。神を信じる者の「ふるさと」が天にあるということは、私たちがどこで生まれていようと、信仰者としては、天で生まれたということを教えています。ある人は、東京で生まれ、ある人は大阪で生まれ、あるひとは福岡で生まれたかもしれません。カイロの人、香港の人、ロンドンの人もいるでしょう。しかし、この地上のどこで生まれた人でも、キリストを信じる者は、みな、ひとつのところ、天のふるさとを持っているのです。


 ヨハネの福音書1章12節以下にはこう言われています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:12~14節) 
ここで、「言」と言われているのはイエス・キリストのことです。「その名を信じる」とは、イエスが「キリスト」であり、「神の子」であり、「主」であることを信じることです。そして、御子キリストを信じる者は、「神の子ども」として、父なる神から、聖霊によって生まれたのです。天におられる神から生まれたのなら、天が「ふるさと」「生まれ故郷」になるのです。
また、日本の思想で、「旅人」と言えば、身分も立場も定まらない、浮き草のような存在ですが、聖書では、神を信じる者は、この世では「旅人」であっても、天に国籍を持つ神の民であると教えられています。ペトロ2章12節で「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と言われているのは、キリストを信じる者たちが神の民であるということが前提になっています。ペトロの手紙第一は、ユダヤ人に対してばかりでなく、もとは「異邦人」と呼ばれていた人々に対しても書かれたものです。異邦人クリスチャンに「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と言われているのは、クリスチャンは、もはや異邦人ではなく、神の民となったからです。ペトロ第一2章10節に「あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」とある通りです。


 私たちは、行く先も、目的もなく、地上をさまよう旅人ではなく、神から、使命を与えられて地上に遣わされている者たち、神の国の大使です。外交官は、一般のパスポートとは別の、特別なパスポートを支給されます。民間人でも、政府の依頼を受けて外国に行く時には、特別なパスポートが与えられるのです。日本では、外交官のパスポートは表紙が濃い茶色で DIPLOMAT と書かれており、公用の場合は緑色で OFFICIAL と書かれています。クリスチャンも、神の国に国籍を持つ者として、神から使わされた大使として、特別なパスポートを与えられて、その使命を果たしています。
天にふるさとを持ち、神の民としての自覚を持つものは、地上でも確かな歩みをすることができます。しかし、天のことを考えず、神への信仰を捨て、地上の富やこの世での成功だけを求める者は、地上でも、ほんとうに意義ある生き方や、ほんとうの成功を得ることはできないというのです。「天を失う者は地をも失います。」しかし、キリストを信じ、神に頼る私たちは、天にふるさとを持ち、それゆえに、この地上の生活を意味と目的を持って生きることができるのです。


2 ふるさとを望み見ながら生きる


ヘブル11章13~14節に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」とありますが、「これらの人々」とは、誰のことでしょうか。神を信じる人々のことですが、とくにアブラハムやイサク、ヤコブといった神の民の先祖たちのことを指しています。
 アブラハムは、生まれ故郷、カルデヤのウルを後にして、はるばるカナンの地まで旅してきました。アブラハムは、多くの家畜の群れやしもべたちを持っており、カナンでも一目置かれるほどの有力者になっていたのですが、アブラハムは、カナンには、自分の土地を持っていませんでした。アブラハムが唯一所有したのは、妻サラの墓地として、ヘテ人エフロンから買い取ったマクペラの洞穴だけでした。アブラハムは、神から「カナンの土地は、おまえとおまえの子孫に与える。」という約束を与えられていました。実際にカナンの土地を手にはしませんでしたが、神の約束がかならず実現することを堅く信じていました。
 ところで、ここで、「信仰を抱いて死にました。」と言っているのは、興味深い表現です。ヘブル人への手紙11章は「信仰の章」と言われるように、「信仰によって」という言葉が繰り返し、繰り返し使われていて、旧約の時代の聖徒たちが、どのように信仰に生きたかが示されています。「信仰を抱いて死にました。」という表現は、この人たちが、信仰に生きただけでなく、信仰を抱いて死んだということを示しています。死にいたるまで信仰を保ち続けたのです。主イエスはヨハネの黙示録でも「死に至るまで忠実であれ。」と命じておられます。
神様は、私たちを神と共に生きる存在として創造してくださいました。ですから、私たちは、神と共に生きる存在であり、今日も神によって生かされている一人一人であるということをよく覚えて意識して生きることは大切なことです。それは単に「ともに」というだけではなく、「神を神として生きる」ということです。
それは年の若い人にも、中年の人にも、年老いた人にも必要なことです。コヘレト12章1節には、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。」と言われています。コヘレトは、栄華を極めたソロモン王が書いたと言われているものですが、彼はこの世の人生を振り返って、この人生は空しいものだと語るのです。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」(コヘレト12章8節)。彼は王様になり、大富豪になり、高い地位について、知恵を与えられて人々を治めるようになりましたが、この世の生活は空しいものだと告白しているのです。
これは言葉を変えていえば、この世にあってどれほど成功したと思われる人生を送ったとしても、この世の生活がすべてであるならば、それは死に飲み込まれていく人生であって、空しいものだということです。だからこそ、彼は、「お前の創造主に心を留めよ。」と述べています。この世の人生に執着する生き方ではなく、「神の国と神の義」を求めて生きるようにと教えているのです。


年を重ねた年配者の方々にとっても、信仰をもって生きることは大切なことです。私が老人ホームに行ったとき、あるお年寄りが、「私は年をとって、体が衰えてきて、私には何の希望もない」と言われたことがありました。その方には、聖書が語っている福音と神の国の希望について簡単にお話いたしましたが、人生のしめくくりの時こそ、信仰が必要なのです。地上を去って神の前に立つ時が近づいていればいるほど、もっと信仰を高めていく必要があるのではないでしょうか。
ある時、イエス様のところに、人々が姦淫の現場で捕まえた女性を連れ来て、「モーセは、このような女には石打ちにするよう命じているが、あなたは、何と言うのか。」とイエスに迫りました。主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。それを聞いた時、人々は、手に持った石を捨てて、その場から立ち去りましたが、聖書は、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き…」と書いています。この世に長く生きているということは、それだけ多く罪を犯しており、自分の罪を知っているということです。このような人たちもまた、イエス・キリストによって赦され、神の国に生きる希望が与えられる必要があるのです。世の中のものは、最初は何かに熱中していても、徐々にその熱が冷めてくるものです。年をとると、情熱を傾けるものがなくなってくるとも言われます。しかし、神への愛は、最初は熱くても、あとはしぼんでいくというものではないはずです。それは年齢を重ねれば重ねるほど、いよいよ深くなっていくものです。私たちも、死に至るまでも信仰を保ち続け、「信仰に生きた」と言われるだけでなく、「信仰者として死んだ」と言われたいと思います。
 「信仰の人々として死んだ。」というのには、もうひとつの意味があります。それは、「死のかなたにあるものを待ち望みながら死んだ。」という意味です。先のみ言葉には、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」と言われていました。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、約束されたカナンの地を手にしませんでした。カナンの土地は、彼らから何世代の後の子孫が、やっとそれを受け継ぐようになっていったものです。では、アブラハムやイサク、ヤコブには、何の報いも無かったのでしょうか。彼らには受け継ぐものが無かったのでしょうか。いいえ、聖書は、「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11章16節)と言われています。神は、新約時代の私たちと同じように、旧約の信仰者たちにも、永遠の神の国を与えてくださったのです。私たちに福音を伝え導いてくださった信仰の先輩方のことを思います。それらの方々は、信仰の人として「生きた」だけでなく、天のふるさと、神の都を仰ぎ見ながら、信仰の人として「死んだ」かたがたでした。私たちも、彼らの後に続きたいと思います。信仰者として生き、信仰者として死ぬ、そのような決意を新しくしたいと思うのです。
3、永遠の命

 聖書の中には、よく「永遠のいのち」という言葉が出てまいります。まことのいのちとは永遠のいのちであるということもできます。
 永遠のいのちなどというと、例えば、不老長寿の薬を求めた人の話とか、オカルトものの物語に出てくる架空の人物などを思い浮かべる方もあるのではないでしょうか。しかし、聖書は決して架空の物語をここに述べているのではないのです。
 歴史の中の出来事として、事実として私たちに神による救いを告げているのです。「死」はもう、どうしようもないものだ。われわれの手にはおえないと私たちは考えています。それはそのとおりです。死が手に負えないということは、自分の罪は手に負えないということでもあるのです。自分の罪は自分ではどうしようもないということです。私たちがこの世でどんなに楽しい人生を送ったとしても、コヘレトでソロモンが述べているように、結局は(永遠の)死に至る、結局は(永遠の)滅びに至る、(永遠の)刑罰に至るとするならば、この人生は空しいことになってしまいます。
 もしも、死が私たちのすべてを飲み込んでしまうとしたら、私たちの人生なんだったのかと思います。ましてや、死の向こうにはさばきがあるならば、たちは、すべてをごらんになっておられる神様の前に、自分の罪の責任をどのように言い開きをすることができるでしょうか。ヘブライ人への手紙には、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9章27節)と言われていますが、神様の前に出た時、「わたしはこんなに正しい人間です」と胸を張って言えるでしょうか。
以前に書いたように、神の正しさとは、完全を求める正しさ(義)なのです。心の中の隠れた思いさえも神は知っておられるのです。私たちは、とうていそのような神様の前に立つことができない者であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。だからこそ、神は、私たちをその罪から救い出すために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。
 「死」で終わるような人生ではない、一度死ぬことはあっても、それは復活のいのちへの門口となるような、新しいいのちを人生を私たちにもたらすためにイエス・キリストは来て下さり、十字架に向けて歩んでくださったのです。
 人間は、自分の力では決して罪に勝つことはできません。自分の罪を自分ではどうしようもないのです。しかし、神はみ子を十字架につけ、(罪のない)キリストの上に刑罰を下されました。そして、死に打ち勝ってよみがえられたのです。この方の恵みを受け入れる者は、神のさばきにあう時にも、罪に定められることがありません。

 わたしが受けるべき刑罰をキリストが負ってくださった。そして、キリスが歩まれた生涯がわたしの生涯と見なされるからです。このことが、ローマ人の手紙8章32節以下には次のように述べられています。
 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」」と書いてあるとおりです。
 「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ人への手紙8章32~39節)。
 キリストを信じて受け入れる者は、罪から解き放たれるのです。だれが、キリストの愛から私を引き離すのか、全宇宙のあらゆるものに向かって呼びかけて、だれも神の愛から私を引き離すものはない。神がその御手をもってわたしをとらえていてくださるからだというのです。だれも、私たちを罪に定めることはできない。有罪とすることはできない。死の中に閉じ込めることはできない。というのです。
 イエス・キリストがよみがえった時のことは、使徒の働き2章でもペトロが説教の中で述べています「キリストは死の中にとどまってはいない。神は彼の上に(私たちが受けるべき)さばきを下されたけれども、イエス・キリストはよみがえってくださった。それは死に対する勝利です。キリストは、初穂としてよみがえられたといわれています。死に打ち勝ってくださったこの方によって、信ずるすべての人は、キリストのいのちと勝利にあずかることができるのです。
 だから、このキリストの恵みのうちに死ぬ者にとって、死はいのちへの出発です。わたしの罪がゆるされているという確信は、同時に永遠のいのちへの確信なのです。

 実をいうと、自分の最も根本的で致命的なこの現実の(罪と死の)問題を解決しないままに生きている生は、本当の生ではないのです。それはあたかも自分は滝つぼに向かう船に乗っているのに、その船から降りようとはしないで、どうすればもうかるか、どうすれば自分は幸福になれるかと考えたり、好きなことをして過ごしているのと同じです。
 私たちは自分の持っている問題に気付かなければなりません。
 それとともにまことのいのちとは何かを追求していくべきなのです。
  「永遠のいのちとは、父なる神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17章3節)
 ここで言う、神を知る、キリストを知るというのは、頭で、知識として知るということにはとどまりません。これは人格的な関わりにおいて知るということです。神を知ることが(私たちを含めたあらゆるものの)いのちを知るということでもあるのです。
 失意の中にあり、恐れと絶望の中にあった弟子たちは、よみがえりのキリストに出会って、人生の新しい意味を教えられました。そして、主イエスはその後10日もの間弟子たちを始め、多くの人とともに過ごされ、食事をしたり、聖書のことを解き明かされたりして、その後多くの人の見ているところで、天に昇っていかれました。しかし、それは主が弟子たちから離れたということではありません。復活の主は、その後弟子たちに聖霊を与えてくださいました。そして、聖霊において主は彼らとともにいてくださるのです。
 生きる時も死ぬ時も、キリストとがともにいてくださること、ここに私たちの希望があります。

第22章 神の国を求めて生きる  理解のために
1) 人生は旅に例えられますが、あなたの人生の旅の終着点はどこにあると思いますか。

2) 神様が用意しておられる天の故郷とはどのようなところであると思いますか。神が与えてくださった神の国の希望とはどのようなものでしょうか。

3) この世において、信仰によって生きる、神の国を求めて生きるとはどのような人生であると思いますか。

4) 永遠の命とはどのようないのちでしょうか。