1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 創世記1章1~5節

1、聖書と創造
日本の神話、古事記によると、天も地もまだしっかり固まりきらないとき、最初に日本人の先祖である天御中主(アメノミナカヌシ)が生まれ、その後、葦の芽がはえ出るように、次々に神々が生まれ、最後に伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)という男神と女神が生まれました。アメノミナカヌシはこのふたりを召して、「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」と命じ、りっぱな矛を一ふり授けました。イザナギ、イザナミのふたりは「天の浮橋」という、雲の中に浮かんでいる橋の上から、その矛で、下のとろとろしているところをかきまわして、さっと引きあげると、その矛の先についた潮水が、ぽたぽたと下へ落ち、それが固(かた)まって一つの小さな島になりました。二人はその島へおりて行き、そこに御殿を建てて住み、最初に淡路島、次に四国、続いて、隠岐の島、九州、壱岐島、対島、佐渡ヶ島を作り、最後に大きな本州をこしらえました。それで、日本は、大きな八つの島の国、「大八島国」(おおやしまぐに)と呼ばれるようになったというのです。
バビロニアの神話では、マルドゥクという神がティアマトという龍との戦いに勝利して、ディアマトの遺骸からこの世界を創造したと言われています。イヌイットの間では、牛が氷に息をふきかけると氷が溶け、そこから人間が出てきたと言い伝えられています。また、ヒンズー教の教典によると、地球は平らで、四角い形をしており、蜂蜜の層、砂糖の層、バターの層でできていて、それを四頭の象が支えていて、その四頭の象は大きな亀の背中に乗っているのだそうです。亀が動くと地震が起こるのでしょう。
こうした神話と、聖書の創造の記事と、どこか似ていると考える方もいるかもしれません。日本の神話では、どのようにして日本列島ができたかをのべていますが、世界のはじまりについては何も語っていません。世界ははじめからあり、その世界から神々が生まれたというのです。しかし、聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。」と言って、はじめに神が存在され、世界が混とんとした無であるところから神によって創造されたと教えています。聖書以外のものは、「創造神話」とは呼ばれていても、実際には、「創造」(creation)ではなく、すでにあったものが形作られる「形成」(formation)の物語でしかありません。
旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、ヘブル語で「つくる」というときは、普通「アサー」という言葉が使われます。ところが、「初めに、神が天と地を創造した。」と言うときには、「バラー」という特別な言葉が使われています。これには、「無から有を生み出す」という意味があります。日本語でも「つくる」というとき、「創造」の「造」という漢字を使う場合と、「工作」の「作」という漢字を使う場合があります。「しんにゅう」のついた「造る」は、ものごとを生み出すこと、造りだすことですが、「にんべん」の「作る」は、すでにあるものを組み立てることを意味します。英語でも “create” と “make” では、意味が違うのと同じです。今までなかったようなものができあがったとき、それを「創造的」(creative)だと言いますが、人間が何かを作るときは、いつでも、神がすでに創造されたものを利用しているだけで、それがどんなに「創造的」(creative)であったとしても、「創造」(creation)ではありません。聖書が、「ベレーシット・バラー・エロヒム・エト・ハシャマイム・ヴエト・ハアレーツ」(初めに、神が天と地を創造した。)と言うとき、それは、太陽や月、星、自然界のさまざまなものを神々としてあがめていた古代の世界観を突き崩しているのです。聖書は、古代人ばかりでなく、富や財産をあがめ、人間の能力に絶対の信頼を置いている現代の私たちの世界観にも挑戦しています。富も財産も、人間の能力も、すべて、神が人間に与えたものであり、人間のほんとうの幸福は、与え主である神に信頼するところにあるということを教えています。聖書は、古代の世界観を代弁するものではありません。また、現代の思想によって勝手に解釈できるものでもありません。聖書は永遠の神のことばなのです。

2、創造の日
聖書は「無からの創造」を教えていることにおいて、他のどんな古代の書物とも異なっていますが、神がその創造をどんなに秩序正しくなされたかを述べていることにおいても類を見ません。聖書は、神が秩序と計画によってこの世界を造られたと教えています。
それを示すのが、「創造の一週」です。創世記は、神がこの世界を、第一日から第六日まで、六日に分けて造られたと教えています。創造の一日、一日は世界の秩序をみごとに描いています。この「日」というのを長い「時代」と考える人もいますが、聖書は「夕があり、朝があった。」と言っていますので、それは文字通りの「一日」と考えるのが良いと思います。聖書は神の言葉ですが、聖書を通してまことの神が分かるようになると、確かにこのような神様であれば無から一瞬にしてあらゆるものを創造することも可能だろうなあと思わせられます。「創造の一日」を何億年もの長い期間と考えるのは、進化論の考え方に影響されて聖書を読んでいるのです。聖書を自分の理解だけで、人間的な考え方で読もうとすると、聖書が伝えようとしている大切なものを見落としてしまいます。神が、どんなふうに世界を造り、今、世界がどんな状態なのかを探るのが科学です。科学の進歩によって、目に見えるさまざまな現象の背後にある法則が明らかになってきました。そしてそれを利用することによって、私たちの生活はとても便利なものになりました。しかし、科学は、神がなさったことの跡をたどることができますが、神がなさったことの意図や目的、それを通して、神が私たちに伝えようとしている愛や恵みを明らかにすることはできません。
こんなエピソードがあります。大学の実験室で、教授が学生たちに、ごく少量の液体を持ってきて、それが何であるかを言い当てるよう課題を出しました。学生たちは、その液体を分析しましたが、それが何であるかなかなか分かりませんでした。時間切れ間近になったとき、ひとりの学生が言いました。「教授、わかりました。これは『涙』です。」教授が、「そうだ。そのとおりだ。」と言うと、その学生は自分の分析と推測が正しかったことで、得意になり、みんなも彼をほめたたえ、教室は大騒ぎになりました。そのとき教授は「確かにこれは涙だ。だが、この涙が、どんな状況で流された涙か、君たちには分かるかい。母が子どものために流した涙なのか。夫に裏切られた妻が流した涙なのか。親を亡くした人の涙なのか。…科学は素晴らしい。科学はこの世界を理解する。しかし、科学は、人の心の深いところまでは理解できない。君たちはそれを決して忘れてはならない。」このエピソードは、聖書を科学のことばで理解しようとしてもできるものではない。聖書は聖書のことばで読まなければならないことを、私たちに気付かせてくれます。
多くの人は「この世界がたった六日でできるわけはない。」と言うでしょう。しかし、神は全能のお方であって、一瞬にしてこの世界を生み出すことも、長い年月をかけて世界を形造ることも、なんら変わることなく、おできになるのです。しかし、神は、そのどちらでもなく、六日間で世界を造られ、七日目を休みの日とされました。なぜでしょうか。このことは、私たちに何を教えているのでしょうか。これは、神が、私たちの人生の日々に入ってきてくださったこと、人間の歴史の中に入ってきてくださったことを表わしています。神は、時間を超えた永遠のお方です。時間や空間に束縛されないお方です。一週間、一ヶ月、一年、一世紀などという時間の枠組みは人間のためのものです。ところが、神は、人間の生活のいとなみのサイクルである一週の枠組みの中に入ってこられ、その中で働かれたのです。このことは、神が、私たちの日常の生活の中で、今も、働き続けておられることを表わしています。しかも、神は一週七日のすべてを使いきるのでなく、そのうちの一日をとっておかれました。創世記は、神が、人とまじわりを持つための一日を確保するために、創造のわざを六日の間に終わらせようとされたかのように書かれています。あきらかに、創造の一週間のうちで、この七日目をいちばん大切な日としています。このことは、神がどんなにか私たちとのまじわりの日、礼拝の日を大切にしておられるかを教えているのです。
一日は昼と夜とからできています。それで、聖書は、一日ごとに「夕があり、朝があった。」と言っています。しかし、この一日は、はじめからあったのではありません。最初、世界はやみに覆われていました。神が「光があれ。」と言われるまでは光がありませんでした。光ができてはじめて、昼と夜との区別があり、そして、一日がはじまったのです。この世界の歴史の第一日は、神が造られたのです。神なしには、人間の歴史もないのです。創世記の残りの部分は、人類の歴史、神に選ばれた民族の歴史ですが、神は、世界の歴史、人類の歴史の第一日目から、この世界とともに、人々とともに、とりわけ神を信じる者とともにいてくださったということを、聖書は語ろうとしているのです。詩編139章16節 には「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」ということばがあります。この詩編の作者ダビデは、天地創造の神が、自分の人生のはじめから、最後までを見ていてくださるということに驚きの声をあげているのです。ダビデは詩編31章15節で「私の時は、御手の中にあります。私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」とも言っています。たとえこの宇宙の始まりが、気の遠くなるような昔のことであろうと、地球の歴史がそんなには古くないものであろうと、神は、宇宙の初めに、人間の創造の初めに、すでにおられ、その歴史を共に歩んでくださったのです。このお方が、私の人生においても、ともにおられる。聖書はそのことを私たちに教えようとしています。
それぞれの日が「夕があり、朝があった。」と言われているのは、意味深いことです。七日目には「夕があり、朝があった。」ということばはありませんが、そのことは、歴史の最後の究極の安息の日をさししめしていると思われます。黙示録では、神ご自身が天国を照らすので、天国には夜はないと書かれています。世界は、今、深い闇に包まれているように見えます。しかし、世界は闇の中で終わるのではありません。やがて、光の中で完成するのです。「夕があり、朝があった。」とあるように、闇ではじまっても、光で終わるのです。神を信じる人の人生も、年をとって人生の夕暮れとなり、それで終わるのではありません。神の光の中を歩むものは、地上の歩みを終えるとき、光の中に入れられるのです。イエス・キリストは言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)イエス・キリストは、この世界の最初から最後まで共におられるだけでなく、私たちの人生のはじめから終わりまで共にいてくださるお方です。「初めであり、終わりである」イエス・キリストとともに人生を初め、人生を終わる人は幸いです。

3、世界の起源
聖書には「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」(詩編19:1)また「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)と言われています。この世界のあらゆるものが神に造られたものであり、それらは神がいらっしゃることと、神が知恵と力に満ちておられる方であることを物語っているというのです。
世界がどのようにして出来たかについてはさまざまな説がありますが、皆さんが良く耳にするのが、宇宙に起源があったとする「ビッグバン説」でしょう。この説が登場するまでは、宇宙には始まりも終わりもなく、常に同じで、永遠、無限であるとされていました。これを「定常説」と言います。それに対して、「ビッグバン説」は、宇宙は最初、ゴルフボールぐらいに圧縮された原子のかたまりでしたが、それが爆発し、138億年かけて現在の姿になったとするものです。
「ビッグバン説」は宇宙が膨張しているという観測結果から導きだされましたが、それは、現在みられるような科学の諸法則との因果関係を説明することが出来ません。現在私たちが暮らしているこの世界には様々な、驚くべき秩序と調和のうちにこの世界が存在していることを教えられており、それだからこそ私たちはこのように暮らしていくことが出来るのですが、私たちは、多くの物理学の法則が不変のままに続いてきており、保たれていることを知っています。今のようなこの秩序と調和の世界が偶然に出来上がってきたと考えるのは非常に無理があります。それは、ビッグバンのような形ではなく、初めからこのような自然界であったと考える方が、理解できるのです。
4、第一原因
「ビッグバン説」や「進化論」は、はたして神を否定することができるのでしょうか。「ビッグバン説」も「進化論」も仮説にすぎません。
天体の観測精度が向上するにつれて、「ビッグバン説」によっては説明しきれないさまざまな現象が見つかるようになりました。そうしたものはこれからも発見されていくでしょう。「進化論」にいたっては、進化論者の中にもさまざまな説があり、今まで進化の「証拠」とされていたものが、進化論を否定する証拠になったりしています。宇宙のはじまりや生命の起源は、それを見た者は誰もいないわけですし、実験室でそれを再現できるわけでもありません。ですから、「ビッグバン説」や「進化論」は、「事実はこうであったかもしれない」と言うことはできても、「事実はこうであった」と言い切ることはできません。「こうであったかもしれない」と言う場合でも、それは、確かな証拠によって支持されたものでなければなりません。
博物館に展示されている類人猿を描いた絵は、ごく僅かな骨のかけらから想像力をたくましくして描かれたもので、科学的というよりは、芸術的なものといってよいものが多くあります。サイエンスとサイエンス・フィクションとは別ものですから、その説を支持していると思われる現象や、その説では説明できない現象を公平に検討する必要があります。科学上の新しい発見が、今まで定説とされていたものを覆すこともありますから、科学者には、事実の前に謙虚であることが求められます。
宇宙や生命の起源について、どんな説をとるにせよ、それらは、ほんとうには起源を説明してはいません。「ビックバン説」でははじめに原子の塊が最初にあったと言いますが、では、その原子の塊はどこから来たのでしょうか。それについて、科学は何も説明することができません。それは科学の領域を超えた事柄だからです。科学は、そこに存在するものの成り立ちを調べるものであり、それが究極的にはどこから来たのかを知ることはできないのです。
しかし、科学が成り立つために必要なことがひとつあります。それは、現在、わたしたちが見ている世界は、何かの原因があって、その結果として存在しているということです。原因なしに結果が生まれるというのは、科学の世界ではなく、マジックの世界です。マジシャンは、何も入っていないはずの箱から果物を出したり、帽子から鳩を飛び出させたりします。「種もしかけもございません」と言っても、実際は種もしかけもあるのです。同じように、この世界の起源には究極の原因があるのです。それが神です。これほどの調和のとれた素晴らしい世界が出来た原因は、偶然に出来たなどとは到底考えることが出来ません。神によって創造されたということこそが、科学的にも理解できる道なのです。
ですから、古代の哲学者は神を「第一原因」と呼びました。こどもが母親に、「わたしはお母さんから生まれたのでしょ?だったら、お母さんはだれから生まれたの?」と聞きます。母親は、「お母さんのお母さん、おばあさんからよ」と答えます。するとこどもはまた聞きます。「ではおばあさんはだれから生まれたの?」母親は、「お母さんの、お母さんのお母さん、ひいおばあさんからよ」と答えます。すると、こどもは「では、ひいおばあさんはだれからか生まれたの?」と質問し、質問と答えは延々と続きます。日本人の場合は、自分たちの起源を「ご先祖様」にしてしまうのですが、聖書によれば、すべての人は、最初の人アダムに、そしてアダムを創造された神に至るのです。こどもは、「では神さまは誰から生まれたの?」と質問するかもしれませんが、神は「第一原因」であって、それ以上に遡ることができないお方なのです。
すべての科学は「存在」や「運動」、また「時の経過」などを前提にして成り立っています。つまり、「第一原因」であるお方が与えた「存在」、「運動」、「時」を対象に論理を組み立てるのです。もし、科学が「第一原因」を否定するなら、科学は成り立ちません。「ビッグバン説」や「進化論」を無神論とを結びつけて「だから神はいない」ということは、決して科学的ではないのです。それは「科学」の装いをした「無神論」という、ひとつの信仰でしかないのです。

第4章 神による天地創造 理解のために
1)世界には「創造神話」と言われるものがありますが、聖書と創造神話についてどのように思われますか。
2)聖書は、神がこの世界を創造されたと述べていますが、あなたはこの世界の起源についてどう思われますか。
3)今私たちが暮らしているこの世界、宇宙や地球上の生命のあるこの世界は、どうしてこのような秩序と調和を持った世界になっているのか考えたことはありますか。
