序 人間、この未知なるもの

 人間とは何かということは、古くから人間が問い続けてきた問題です。人間をどう考えるかによって、私たちの生き方が定まってきます。1912年にノーベル賞を受賞したアレキシス・カレルは、『人間-この未知なるもの』という著書の中で、「人間が真に自分を知らなかったために、この世界を人間自身のために向くように建設することができなかった。あらゆる物質の科学が生物の科学をぐっと追い抜いて発達したことは、人間の歴史の最も悲惨な出来事のーつである。人間を知らない人間の頭でつくり出したこの世界は、人間の体力にも精神にも適しないものであった。・・・・実際、現代の文明は、遠い昔に滅亡してしまった多くの文明のように、人間が生きていることさえできなくなるような状態を作り出したのである。・・・人間を深く正しく知ることよりほかに、この不幸を救う方法はない」と書いています。
 人間を創造されたのは神様であり、人は神と共に生きる存在として創造されたのですが、罪が入って神との関係が損なわれてしまったとき、人は自分が何であるのかさえ見失ってしまったのです。そのような人類に、造り主である神は、聖書によって人間とは何か、人間はどこからきて、どこに行くのか。人間のあるべき姿がどこにあるのかを教えてくださっているのです。

 1 聖書は人間をどうみているか

 聖書は人間について多くのことを教えています。創世記1章26、27節には、「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とあります。
①  神によって生かされている人間

この聖書の言葉からわかることは、まず人間は神によって創られたものであるということです。これははじめに創られた人間だけでなく、すべての人間の存在は神によって与えられたということです。自分で生まれようと思って生まれた人はありません。また両親の意志だけによったのでもありません。生命は神によって与えられ、神の力によって保たれているのです。
 この宇宙をお創りになった神は、御自分の名前を、「わたしは、有って有る者」
 「わたしは、有る」と言われました(出エジプト記3章14節)。これは「私は存在する」という意味で、この宇宙の中で、自分の力で存在するということができるのは、創造者である神だけです。これを「神の自己自存性」ということができます。神様はほかの何物にも頼ることなく、ご自身で存在し、あり続けることの出来るお方です。しかし、神以外の被造物はそうではありません。私たちの出生も、その後の暮らしも、すべては神に支えられ、神によって生かされているのです。
 作家の小田嶽夫氏は、『生命の不思議さ』という小文の中で「ところで、これはもっと大分前からのことだが、肺とか、胃、腸その他の内臓の動きについては直接肌で感じることが少ないから別として、指頭にじかに感じられる脈の動き一心臓の活動については、しばしば不思議な気持ちを味わわされたものであった。機械というものはじきに故障の起こるのが常だが、少なくとも私の心臓の場合は50年、60年、60何年のあいだ一度だって故障の起こったことはなく、しかも機械とはちがって、一分間も休んだことはなく、営々として働きつづけていることに、生理学者や医学者にはそこに何の不思議も無いのだろうが、私は何か神秘的なものを感じないではいられないのだった。人間の肉体がじつに精巧に出来ていることはわかるがそんならそんな精巧な構造がどうして出来上がったのかということはだれにもわかっていない。そこに私は創造主というか神というか、何かそういうものの存在を感じないではいられない」と書いています。
 心臓でも肺でも、そのほかの体の中の働きでも、私たちが動かしているのではありません。これはみな神の力によるのです。ここに神と人間の依存関係すなわち、人間の存在は、全く神にたよっているという関係がでてきます。
 私たちの存在は偶然ではありません。神によって創られた人間には、神の期待と計画があります。神の期待にこたえ、その計画の中に生きていくことが、人生の目的であり、人間にほんとうの生きがいを与えるものとなるのです。私たちは一人ひとり、人生においてなすべき役割が与えられています。それを発見して、その神の期待を実現していくことが、人生の目的なのです。

②  人生の主な目的は何ですか?

 宗教改革者のジャン・カルバンが作ったジュネーブ教会信仰問答の問1以下は次のように言われています。

 問1は、「人生の主な目的は何ですか」という問いです。答えは簡単です。「神を知ることです」とあります。この場合の「知る」という言葉は、ただ単に神が存在することを頭で知るとか、その本質がどうのこうの、といったことではありません。聖書の「知る」という言葉には、もっとずっと深い意味があります。例えば、「アダムはその妻エバを知った。そしてカインが生まれた」(創世記4・1)という御言葉は、ご承知のように、魂と体として創られた人間同士が、お互いを人格的に深く知り合い、家庭が形成される、という意味です。あなたが、AさんならAさんという方を知るとはどういうことでしょうか。その方の履歴書を送ってもらって、あるいはその方の録音テープを送ってもらって、それがどんなに詳しい説明がそこにあったとしても、それであなたはAさんを知ったといえるでしょうか。やはりその方と出会ってお話をしたり、一緒に暮らしたり、そうした出会いによって知るようになるに違いありません。また、「知る」ということについて教育者の林竹二氏は、「真実に知ることは、自分が変わることだ」と述べています。受験学びをして、たくさんの知識を身につけたり、博学と言われるほどに様々な知識を身に着けたとしても、それによって自分が変わることがなければ知ったことにはならないと言われるのです。
さらに、「神を知る」ということは、神(聖霊)によって新しく生まれることです。ヨハネによる福音書3章5節には、「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われています。「水と霊とによって」とは、悔い改めて、聖霊によって信仰に導かれてこそ救われると言われているのです。
同じくヨハネによる福音書17章3節で、主イエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と言われました。
 ジュネーブ教会信仰問答では、私たちの人生の(究極の)目的は、神を知ることだと答えていました。そして、イエス・キリストは、神とイエス・キリストを(真実に)知ることが、永遠の命を得ることなのだと言われたのです。
 このことに関連して、聖書が書かれた目的についてもご紹介しておきましょう。これらはすべて同じことを教えていると言ってもよいでしょう。

ジュネーブ教会信仰問答によれば、人生の主要な目的は、イエス・キリストを知り、神ご自身を知ることだと言われていました。さらに聖書によって教えられることは、神を知るためには、聖書を理解するようになり、聖霊の導きによって新しく生まれ、イエス・キリストを私の救い主と信じて永遠の命をいただくことが出来るようになることだといえるでしょう。
さらに、問3:「では、人間の最上の幸福とは何ですか」答え:「それも同じであります」、とあります。つまり、人生の目的と、人生の幸福とは、完全に一致するということです。ここに言われていることは、人生の究極の目的であり究極の幸福ということです。
「究極の」と言ったのは、人それぞれに人生の目的も幸福の在り方も持っておられると思いますが、ここで言われている人生の目的と幸福は、どの人にとっても欠かすことが出来ない目的であり幸福であるということです。
すべての人が、この神によって命を与えられ、神によって生かされているのであれば、これはすべての人にとっての真理なのです。

③ 神のかたちに似せて創造された人間

冒頭で引用しました創世記1章26~27節には、「1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と言われています。
 同じく2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」といわれています」
 人間は、偶然に存在しているのではなく、神によって与えられ、神によって生かされている存在であるというのです。神のかたち」というのは、「関係」と「人格」という二つの面から考えることができます。

1) 関係の中に存在している人間
人間が神のかたちに創造されているということの一つの意味は、私たち人間が関係の中に造られているということです。人間はどこまでも関係の中で存在しているということです。基本的にはこれは次の三つの関係があります。
 第一の関係は「神との関係」、第二の関係は「人間相互の関係」第三は「他のものとの関係」です。
「神はご自分のかたちに人を創造された」という言葉のうちに神と人間の関係が明白に示されています。人間は神によって造られたものですから、人間は決して神になることはできません。また人間は、神のように自ら満ち足りて存在することはできません。人間は、神によって生かされ、自由な意思を持って、神の恵みに応答していく者として造られたのです。


2) 人格を持つものとして
『われわれにかたどり、われわれに似せて』創造されたというのは、神様が人格を持っておられるように、人間も人格を持つものとして創造されたということです。人間が人格を持っているということは、
 美しい夕焼けを見て感動したり、友達の入試合格の知らせを聞いて一緒に喜んだり、交通事故で息子を失った人のところへ、悲しみの思いでかけつけたりする。これは、私たちが神に似せて人格を持つ者として造られているからです。犬や猫に、「入試に合格したんだよ」といっても一緒に喜ぶことはできませんし、悲しみをともにすることもできません。
 人間の心は、目で見ることはできませんが、心があることはお分かりだと思います。この心には、説明のために区別をするならば、知性と感情と意思があるといってもよいでしょう。
知性があるから、いろいろなことを考えたり、作り出したりすることができます。知性がありますから、子供たちに言葉や文化を伝えることもできますし、教育をすることもできるのです。感情というのは、うれしいことがあると喜んだり、悲しんだり、驚いたり、楽しんだり、感動したりします。これは感情があるからです。ですから、人間は芸術や音楽や文学を生み出すこともできるのです。色の美しさや、すがた、形の美しさを作り出したり、音の美しさ、音楽を楽しんだりすることができます。ことばの美しさは文学です。詩や短歌、俳句もみなそうした美しさをもっています。
さらに意思というのは、人間の尊厳ということを表しています。人間の価値はかけがえのないものですが、このかけがえのなさがここにも表されています。
自分でものを決めたり、自分の決断によって行動するという、他のだれでもない、自分は自分であるという、その人独自の人間の存在です。たとえ、親が子供はこんな職業について、こんな人になってほしい、こんな趣味をもって、こんな働きをしてほしいと思っても、子供は親の言う通りになるとは限りません。すべての人は、こうした意思を持っていますし、どんな人であっても、こうした人の意思が尊重されなければなりません。
「基本的人権の尊重」ということは、人間ならではのことがらです。それだからこそ私たちは、他にも神によっていのちを与えられているあらゆるものに対して、そのいのちを尊重し、守り、みこころに従って治めていくべきなのです。
どの人もかけがえのないひとりとして、神によって招かれているということを覚えて下さい。この人間の社会では、お金があるとか、有名な会社に入っているとか、学歴がどうだとか、地位がどうだとか、部落民だとか、病人だとか、前に犯罪を犯した人だとか、そんなことで人間の価値を判断することがあります。しかし、神の目から見れば、どの人もみな尊いひとりなのです。性格の違いや人種の違い、境遇の違い、賜物の違い、いろいろな違いをもちながら、みんなが協力して、愛し合い、神のみこころを行うことを、神は求めておられます。

第6章 人間とは何か   理解のために


1)「人間を深く正しく知ることよりほかに、この不幸を救う方法はない」と言ったのは誰ですか。
2)あなたは、人間が今日このように存在しているのはなぜだと思われますか。

3)聖書は人類の起源についてどのように記していますか。

4)あなたは人生の目的についてどのような見解をお持ちですか。

5)神のかたちに似せて創造された人間は、どのような特徴を持っていますか。