序 人間の価値
第5章では、人間は神によって創造され生かされている存在であるということを見てきました。神が創造された人間は初めから完成された人間であり、神のかたちに似せて創造されたので、人格を持ち、知性・感情・意思を持つものとして初めから存在していたのです。産まれてくる子供たちも例外なく同じく人格を持つものとして生まれてくるのです。ですからどのような人種であれ、どのような境遇に産まれた人であっても生まれながらに神によって与えられた尊厳を持ち、基本的な人権を持つものとして生まれてくるのです。
人間の価値について、多くの人々は、例えば、あの人はこの人より才能があるとか、お金や財産があるとか、社会的地位や身分がどうだとか、健康であるとか体が不自由であるとか、人種や境遇がどうだとか、…人間はこのようなことで人間の価値を考えるということがありますが、こうしたことで人間の価値を計るのは聖書の理解とは異なります。
ここに挙げたものはいずれも相対的なものですが、聖書は、人間の価値は神のかたちに造られているすべてのいのちが尊ばれるべきもの、どの人も人間の価値は絶対的なものであることを教えています。人間が〔神のかたち〕であるということは、人間が一人ひとり神との関係において「絶対の価値」を持つ者であるということであり、〔基本的人権〕という憲法の理念は、このような聖書の人間理解から出てきていることを覚えておくことも大切でしょう。
人間は、お互い同志を比べ合うことによって、つまり〔差別〕によって価値を決めるのではなく、ひとりひとりが神の光を照り返すうつわとして、絶対の価値を持っているということが、〔平等〕ということの根拠になるのです。

1、「進化論」という仮説に基づいた人類の起源
これについては4章でふれましたので、ここでは簡単にふれておきます。神が人間をお創りになったという聖書の考えを聞いて、不思議に思われる方もおられるのではないでしょうか。日本の学校では、人類の起源については「進化論」という仮説が教えられているからです。「進化論」によると、現在のあらゆる生物は、ビッグバンと言われるような爆発が続いて物質が生まれ、物質からアメーバーのような下等生物が生まれ、突然変異や自然淘汰によって、長い期間の経過と共に次第に高等生物へと進化していったと言われています。
このような考えはギリシア時代からありましたが、一般に受けいれられるようになったのは、1859年に、英国のチャールズ・ダーウィンが『種の起原』という本を出版して広く人間の学問や思想に影響を及ぼしてきました。
生命発生の学びの権威である、米国のジョージ・ワルド博士は、地上における生命の発生については、二通りの考えしかないと言いました。それは神によって超自然的につくられたと考えるか、自然に発生したと考えるかです。進化論は後者に属する考えです。ダーウィンが考えた仮説は、この世界のすべての生物は、無生物から生まれ、突然変異と自然淘汰によって、長い期間を経て、下等な生物から高等な生物へと次第に進化してきたという説で、これはまだ科学的に証明することは出来ていません。
たとえばこの説が正しければ、古い地層にある化石は下等な生物がおり、新しい地層になるほど高等生物の化石が出てくるはずです。ところが実際は、化石が存在する古い地表からもあらゆる生物の化石が出土しているのです。言語学によれば、人間は言葉を話しますが、これは①初めから言葉を話す能力がその人のうちにプログラミングされていること、②正確にその言語(日本語ならば日本語)を話して教えてくれる存在があること、この両者がなければ人は決して言葉を話すことは出来ないことが証明されています。さらに、「進化論」では、長い年月の経過と共に、サルから人間に進化したと教えていますが、そうであれば、サルが30%、人間が70%というような中間種の化石が出てくるはずですが、そのような中間的な存在を現在も見つけることは出来ませんし、化石でもそのような中間種を見つけることは出来ないのです。

2 生命のはじめ
物質がどうしてできたかということは、科学では完全に説明できません。なぜなら、この世界の驚くべき秩序と調和は神によって創造されたものですから、創造された後の自然法則のもとにあるものは科学において証明することは出来ても、物質や生命の始まり、その起源については科学で証明することは不可能です。
東京大学の野田春彦教授は、その著書『生命の起源』の中で、生命の材料と考えられるタンパク質や核酸が自然にできる確率を計算して、全宇宙の物質を使っても、その確率はきわめて少ないと言い、「タンパク質や核酸の比較的小さな分子を一個だけ考えても、こんな有様である。生物体をー個作るためには、ウイルスのように自分だけでは増殖できず、増殖するには他の生きている細胞の助けが必要なものでも、核酸の一分子と数百分子のタンパク質が必要である。これらのものが同時に地球上に偶然作られる確率は非常に小さいものである。つまり、我々が空気の分子や水の分子を考える場合のように、すべての分子が勝手に行動すると考えては、地球上に生物がひょっこり現われることは無いというべきである。それでも生物は発生したのである」と書いています。
このように考えると生物は神がお創りになったと考えるほかはないと言わなければなりません。
3 神が御心に留めてくださる人間
聖書の詩編8章4節以下には次のように言われています。

無限大の宇宙の前にたたずむ時、人は自分があまりにも小さな存在であることを痛感します。彼は歌います「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(8: 5)。
「人間は何ものなのでしょう」、人間と訳されている言葉は「エノシュ」で人間の弱さを示します。人間は有限であり、やがては死すべき存在にすぎません。「人の子」とは「ベン・アダム」、アダムの子、アダムは土(アダマ)から来ますから、塵の子と訳すこともできます。
人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎないことを詩編の作者は認識しています。一人の人間の生涯は70年、あるいは80年、長くても100年程度です。それはこの世の人生だけを見れば決して短くはありません。しかし、宇宙の大きさや無限の神から見るならば、その生涯は一瞬であり、また長いように思える人類の歴史さえ、数十億年という宇宙の歴史に比べれば、数えるに値しないものです。それなのに私たちはその地上の人生を、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩み(マタイ6:25)、瞬く間に過ぎゆく地上の栄光(富や地位)に目を奪われ、反目し、嫉妬し、恨み、争って、その生涯を終えていくのです。神の造られた自然がこんなにも美しく、雄大であるのに、人の世は何故こんなにも騒々しく、醜いのか、詩編の作者は満天の星の輝く夜空を前にして思うのです。
詩編19編には「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。」と言われていますが、宇宙の星々の運行は実に規則正しく、美しく時を刻んでいます。私たちの体も実に無駄がなく、お互いの器官が体全体が生きていくために働いています。この地球にある自然の営みも、動物も植物も実に見事ないのちの営みを通して神の栄光を現わしています。しかし、人間だけが、あたかもがん細胞のようにその秩序を乱し、自らの欲望のために自然を破壊し、争いを繰り返して神によって造られたあらゆるものを破壊しているようにも思われます。
しかし、そのような人間を神はなお心に留めてくださっているというのです。詩人はただ人間の卑小さだけに注意を奪われているのではありません。そのような無に等しい者に目を留め、顧みて下さる方に思いを馳せるのです。彼は歌っています「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」(8:6-7)。
神の前には、「無に等しい人間が神に次ぐ者として創造された」、そして「万物の支配をその人間に委ねられた」、詩人はそのことを驚き、感謝しています。この言葉の背景には、神が人間を、特別の配慮をもって、神のかたちに創造してくださったという事実があるのです。すでにご紹介いたしました創世記には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」」(創世記1:26)と言われていました。

4 命の息を吹き込まれた存在としての人間
詩編8篇の背景には創世記の人間理解があります。創世記2:7には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と言われています。人は土(アダマ)の塵で創られたから、人は(アダム)と呼ばれたと言われています。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、小さな、取るに足りない存在であることを示します。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれました。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になったと創世記には記されています。人の人たるはその肉にあるのではなく、神が吹き込まれた息(ルーアハ)、すなわち霊が与えられているためです。この霊こそ神の賜物であり、神の霊なしには人は動物にすぎないのです。人間にとって、肉体はやがて塵に帰り、朽ちていくものですが、目には見えない霊・魂こそが人間の本体であるということが出来ます。
多くの人々は体の健康のために様々なことを考えたり投資をしたりしています。それも神様からいただいた尊い体なのですから大切にすべきですが、それ以上に私たちの内面にある霊・魂を生かすために思いと行動を整えていく必要があるでしょう。体のために必要な糧がありますが、自分自身を養っていく霊と魂のための糧を神によっていただくことはそれ以上に重要なことなのです。人は、神の息によって生かされている存在なのです。
これまでの人間の歴史は戦争の歴史、殺しあいの歴史でした。人間は国と国が争い、人と人が争う歴史を繰り返してきました。動物は決して無用な殺戮は行いませんし、ましてや同族同士の殺し合いはしません。社会学的に見れば人間は動物以下かもしれません。神との関係が損なわれてしまったゆえの出来事です。
聖書が教えているように、どの人も神(の霊)によって創造され生かされている存在であることを自覚して、神を神として生きる必要があるのです。

5 神と共に生きる喜び
私たちは、自分自身のことは誰よりも自分が一番よく知っていると思っているかもしれません。他の人は四六時中あなたと一緒にいるわけではありませんし、あなたが心の中でどんなことを思っているかということも言われなければ分かりませんから、確かに他の誰にもまして自分のことは自分がよく分かっているということも出来るでしょう。
けれども、これまで記してきたことを思い起こしていただくと、あなたは実をいうと神様によって創造され、生かされている存在なのです。
マタイによる福音書10章には以下のように記されています。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:29~31節)
私たちは、自分の体のことについて今日の髪の毛は何本などと数えることは出来ませんし、私たちの体にある60兆個の細胞の状態も分かりませんし、心臓を動かすことも止めることも出来ません。しかし、造り主である神様はそうしたこともすべてご存知です。
自分のことを、力がない、つまらないものだと考えている人にも、そのような自分のために、主イエスが死んでくださった。神が私のことを心にかけてくださっているというところから信仰は始まっていくのです。その点では、マリアの賛歌は、こうした私たちの信仰の基本について教えているものだと思います。
「そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、」(マタイ1:46~48)と言われています。そういうことを知らされたとき、彼女は卑しい自分から解放されました。このような私を今日も生かし、心に留めていてくださる神を知った時、彼女の心は感謝と讃美に満たされていったのです。
どんなときにも、聖書によって人が励まされるのは、神がともにいてくださるからです。その時、その人がどういう人間であるのかは問題ではありません。それが問題になっている時は、神がともにおられるということがはっきりせず、なお不信仰の状態にとどまっていることになります。宝が素晴らしければ、土の器は問題ではありません。自分はつまらないが、自分の中に持っているこの宝を見てくださいと言えばよいのです。それが証しです。それほどに素晴らしい宝を自分の中に持っているということは、自分が神によってもたらされる命に生かされており、神によって守られ、支えられ、神によって将来と希望が与えられているということなのです。

第7章 人間とは何か 2 理解のために
1)人間の価値はどういうところにあると思われますか。人のいのちはなぜ尊いのでしょうか。
2)ダーウィンの仮説である「進化論」にはどのような問題点があると考えられますか。
3)「人間は何ものなのでしょう」という詩編の作者の言葉は、どのようなことを表しているのでしょうか。
4)神と人間の本来の関係は、どのようなものだと思われますか。
