私たちと聖霊
1)神とのかかわりをもたらすもの
罪は〔いのち〕の源である神との断絶をもたらすものであり、神との関係がそこなわれることは[罪と死]に向かうものだということを見てきました。そして、罪ある私たちが神様との関係を回復するために、イエス・キリストが救いのみわざを果たして下さったということも見てきたのです。
ところが、どんなに神様がすばらしい働きをもって、愛をもって私たちを救おうとされても、私たちがそれを理解できないままであれば何にもなりません。
神様のお働きがどんなに素晴らしいものであっても、それが私のものとならなければ意味がないのです。「豚に真珠」のようなことになってしまいます。
これを分からせてくださり、この恵みのうちに、神とともに生きるようにしてくださる。私たち自身の〔救い〕、自分自身の〔福音〕としてくださるのが聖霊なのです。
イエス・キリストのことは、たいへんはっきりしていてよく分かるのですが、〔聖霊〕というのはよく分からないと言われる方があります。しかし、実は神を求めるようになったり、自分自身の罪を自覚するようになったり、イエス・キリストのことが分かるようになったこと自体が、すでにあなたは聖霊の導きの中にあるということが出来るのです。イエス・キリストのことがよく分かるということは、決してあたりまえのことではありません。
もともとイエス・キリストと私たちの間には、いろんな〔へだたり〕があるのです。例えば、そこには二千年という時聞のへだたりがありますし、あのパレスチナの世界と私たちのいる日本という場所との間の、空間的なへだたりもあります。その上、あのナザレのイエスが、実は生ける神の子キリストであるという、信仰の決断をもってしか越えることのできないへだたりもあるのです。
このようないろいろなへだたりをこえて、イエス・キリストと私(たち)を結びつける神との〔かかわり〕をもたらす働きが聖霊の働きなのです。ですから、イエス・キリストのことが分かるようになった、という場合には、実は、聖霊の働きが私たちに及んでいるということなのです。
このように、聖霊は〔過去〕のイエス・キリストと、〔現在〕の私たちとの間にあるさまざまな〔へだたり〕をのりこえて、キリストをわたしと結びつけてくれる神の〔かかわり〕の働きであり、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」ということができない」(コリント人への第二の手紙12章3節)のです。
そしてまた、聖書には、イエス・キリストはふたたび来られる主であるということも教えられています。新約聖書の最後の言葉はこれです。「これらのことをあかしする方が仰せになる。『しかり、わたしはすぐに来る』。アーメン。主イエスよ来たりませ」(ヨハネの黙示録22章20節)。

ですから、パウロは次のように語っているのです。
「この幕屋に住む私たちは、重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。私たちをこのようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として[霊]を与えてくださったのです。」(コリント人への第二の手紙5章4~6節)。
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちはあがなわれて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ1章13~14節)。
このように、将来のキリストを現在の私(たち)と結びつけ、私たちに希望を与え、すでに始められている救いがやがて完成されることに対して、〔保証〕を与えるものが聖霊です。
聖霊とはこのように、過去のキリストおよび将来のキリストを、現在のわたしとを結びつける〔神のかかわりの働き〕に他ならないのです。聖霊は、三位一体の神の第三人格であるお方であり、神ご自身です。聖霊によって私たちは、過去と現在と未来の神の働きを知るとともに、神によって新しくされ、先に述べたような祝福に与らせてくださり、神の民として生きるように導いてくださるのです。

2)聖書と聖霊
どんなに神様が、教いのために働いてくださっていても、心が神から離れてしまって、罪のうちにある人間は、そのままでは神の働きを認めることができません。神の真実を分かるようにして下さるのは聖霊の働きによるのです。そして、キリストは聖書によって表されていますから、キリストと私たちとの結びつきは、聖書と私たちとの結びつきであるといってもよいでしょう。
宗教改革者のジャン・カルヴァンは、「神は聖書をとおして私たちに語りたもう」といいました。神の啓示が完結した今、神は何よりも〔聖書〕をとおして、具体的に、そして私たち自身に分かる言葉で、歴史の事実を通して私たちに語ってくださいます。
聖書は先に述べたように、今から何千年も前の出来事を記しています。これが記されたところの舞台も日本ではなく、文化も習慣も違う外国で起こった事柄です。しかし、この内容と意味を理解していくと、ここにはまさにわたしへの神の語りかけがあることに気付かされるのです。「あっ、ここに書いてあることは私のことだ」「ここに書いてあるのは今の日本の事柄そのままだ」ということに気付かされます。
なぜなら、ここには時代が変わり、民族が異なり、境遇が異なったとしても変わらない人間の真実の姿と、そのような人間を救おうとなさる、今もなされている神のみわざを語っているからです。本質的な「真理」というものは、時代が変わっても変わらないものです。どの時代にも、どの人にもあてはまる「真理」のみことばとして聖書は、今も私たちに語られているのです。
聖霊は、この聖書を通して私たちに語りかけ、神と私たちとの間に架け橋を渡してくださるのです。私たちは聖書を読むということは、言うまでもありませんが、ただ頭の中で神様についての知識を得るということだけではありません。
神との出会いによって、私たちが新しく変えられていくのです。神を知るということは、ただ知るということだけにはとどまりません。神を知るということはすなわち私たち自身を〔神のご覧になる目〕によって真実に知るようになる。自分を知るようになり、自分にとっての救いと望みを知るようになり、私たち自身が変えられていくことと一つなのです。
主イエスは、こうした聖霊の働きについて、次のように教えておられます。
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。・・・その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネによる福音書16章7~8節、13節)
聖霊が聖書をとおして語りかけてくださることは、単なる知識ではなく、私たちが人間として生きていく生き方や救いということと深く関わっているのです。
聖霊は、私たちが見えていなかったものを見えるようにさせ、自分が神のように振る舞っていた罪を自覚させ、悔い改める心を与え、主イエス・キリストにおいてあらわされているまことの神に信頼する信仰を与え、私たちを神の救いのいのちに生きることができるように導いて下さるのです。
先に、[祈り]とは神との対話であると述べました。聖書を読むときにも、神はこの〔対話〕を求めておられます。祈りの心で聖書のみことばを聞き、自分にあてはめて受けとめ、なぜ、イエス様はここでこんなことをいわれたのだろう」とか「このみことばは、わたしに何を言おうとしているのか」というように、いろいろな〔問い〕をもって読むことも大切なことでしょう。表面的なできごとだけでなく、そこで語られている普遍的真理が必ずあるのです。それを〔なぜだろう〕という思いで追求していくことも大切です。受け身ではなく積極的に求めることです。
そして、実は聖書を読んで理解していく中で、必ず教えられることは、自分が問うだけではないということです。むしろ、神が聖書を通して私に問うておられるということに気がつくでしょう。この人生において私たちがいろいろと疑問に思っていることへの回答と希望が聖書には告げられています。それだけでなく神は私たちに聖書を通して根本的な〔問い〕を投げかけておられる。それに対して〔答え〕る決断をすることを期待しておられるということに気がつく時が来るに違いありません。そして、神様の〔問い〕に答えていく生活の中で、あるいは答えようとする歩みの中で「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(コリント人への第二の手紙4章16節)ということを経験するようになると思います。

3)教会の誕生
聖霊によって、聖書と祈りを通して神を知り、キリストを知るようになると、 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリント人への第二の手紙5章17節)という新しい世界が、私たちの前には開かれるのです。この意味で聖霊はまた〔新しい創造の霊〕なのです。ヨハネの福音書によると、イエス様はこの地上の生涯を終えるにあたって、〔助け主〕〔弁護者〕としての聖霊をおくることを約束しておられます(14章15~81節・16章26節・16章1~15節など参照)。
そして、この聖霊は、「わたしが去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来ないからである。」(ヨハネ16章7節)と言われています。
十字架に死んでよみがえられたとしても、イエス・キリストが、人間の肉体のままであれば、イエス様がおられるところは限られた場所に限定されてしまいます。しかし、天に昇り、聖霊においてともにおられるならば、よみがえりの主は、もはや時代や場所に限定されることはありません。この時代の、日本にいる私たちとともにおられることができるのです。
イエス様が〔助け主〕〔弁護者〕として聖霊を送ってくださるということは、神がすすめてこられた救いのわざが、イエス・キリストの地上の生涯を終えることによって決して中断されることはないということです。聖霊によって、神の救いのみわざはさらに完成に向かって続けられていくのです。
新約の教会が、いつ誕生したのかといえば、使徒言行録の2章に記されている聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を通して聖霊が与えられ、キリストのからだとしての教会が誕生したといってよいでしょうが、その前のキリストのよみがえりがその原点となったということも出来るでしょう。キリストが捕らえられて、十字架につけられ、葬られたころ、弟子たちは、主イエスを捨てて逃げてしまいました。
「おまえはあのイエスという者の弟子ではないのか」と聞かれた時にも、「わたしは弟子ではない。イエスなどという者は知らない」と答えていたのです。自分たちの主が当時の権力者たちに捕らえられてしまって、しかも極悪犯罪人として十字架に付けられて死ぬという事態です。それにこれまで主イエスによっていろいろなかたちでいやされたり、神の言葉を聞き、慕ってきたはずの民衆たちも 「イエスを十字架につけよ」と叫んでいる状況です。もうだめだという思いもあったでしょう。主人が殺されたように、自分たちも殺されるかも知れないのです。彼らはそんな中で、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネの福音書20章19節)といわれています。
この状況の中で、弟子たちが恐れる気持ちは私たちにもよくわかります。しかし、この恐れは、弟子たちが、イエス様とそのお言葉をも信じることができなかったということでもあります。イエス様は、そのご生涯の中で、いろいろな形で、ご自分が約束の救い主であることを示されました。そして十字架に付けられること、死んで後よみがえることをもあらかじめ予告しておられたのです。

例えば、ルカの福音書9章22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といわれています。旧約聖書から新約聖書に至るまで、実に数多くの預言がなされましたが、そのすべてが言葉のとおり実現されました。
そのようにして、聖書が語る神は、生きておられる神、この歴史を支配しておられる神、約束に忠実な神であることを示しておられます。どのような妨害があり、どのような暗い罪があろうとも、おそるべき死に直面する時にも、それを克服し、それに勝利し、みことばを実現して下さるお方なのです。
全くの絶望を感じていた弟子たちの中に、よみがえりのイエキリストが立たれました。「弟子たちは、ユダヤ人を恐れ自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが真ん中に立ち、「あなたがたに平安があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(21節)
このようにして、キリスト教会は、恐れ、弱さを覚え、無力感を感じているひとにぎりの弟子たちのうちによみがえりのキリストが立たれたところから始まるのです。イエス・キリストのよみがえったのが日曜日でしたから、日曜日を主の日と呼んで、この日ごとに礼拝をささげるようになりました。この復活のキリストは、やがて大勢の人が見ている前で天に昇って行かれましたが、〔助け主〕である聖霊においてキリストは私たち(神の民)とともにおられるのです。
この約束の聖霊が〔聖霊降臨〕(ペンテコステ)の時に与えられ、復活のキリストとともに、〔キリストのからだ〕としての教会がこの地上に生まれました(使徒言行録2章以下参照)。
教会はキリストのからだ(エフェソ人への手紙1章22節)と呼ばれてきました。〔キリストのからだ〕は、キリストの霊である聖霊のやどる器です。この教会をとおして、神はそのみこころを伝え、そのみわざを継続して果たされるのです。
ですから、教会は、絶えず神のみこころを求め、自分の願いや自分の知恵によってではなく、神を神として、神の栄光のために歩むべきです。歴史を振り返ると、教会は必ずしも神を神として歩んできたとはいえません。自らが神であるかのようにして、自らの願望を満たすために、時には争ったり憎み合ったり、尊い血を流し合ったり、差別や抑圧の首謀者になることさえあったのです。こうしたことがどんなに神の御心を悲しませたことかと思います。
教会には真実の意味で神が神としてあがめられるようなあり方が求められています。ですから、教会でみことばが正しく語られるということが非常に重要なのです。
教会についてもう一つ言われることは、使徒信条のなかにもありますが、〔聖徒の交わり〕ということです。これは言ってみれば、教会は聖霊によって与えられるキリスト者の交わりであるといってもよいでしょう。あるいは聖霊によってキリストと結び付けられている者の交わりであるといってもよいでしょう。
このキリストは、時間や場所には限定されません、聖霊はそのようなものをこえて働いてくださいますから、聖徒の交わりは、時代や場所をこえた交わりなのです。このことは、私たちに大きな慰めと励ましを与えてくれることであるに違いありません。キリストをかしらとして歩もうとする多くの信仰の友を、神は世界中に起こしていてくださいます。
私たちはうっかりすると、教会というものを私たちの目の前に見える形でだけ考えてしまいがちです。確かに見える交わりは大切ですが、聖徒の交わりということは、各個教会の見える交わりをこえて、時間と場所をこえた交わりの中に、私たちが置かれていることを示しているのです。
このように私たちが、すでに召された代々の聖徒、全世界の聖徒に、見守られているという励ましに満ちた事実が〔聖徒〕の交わりなのです。

第15章 聖霊と教会 理解のために
1) 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」ということができないという聖書のみ言葉は、どんなことを教えていると思いますか。
2) 聖霊は私たちのためにどんな働きをしてくださるのでしょうか。
3) 弟子たちが復活のキリストに出会ったことによって、彼らはどのように変えられていきましたか。
4) 聖徒の交わりとはどのようなものだと思いますか。
