序・救いへの道

 はじめ神のかたちにかたどってつくられた人間は、神様から見ても、すばらしい、清い心と深い愛に満ちた者でした。神との関係も自分や他の人との関係も良好であり、他の動物や自然界に対しても思いやりのある心をもってこの世界を治めていたのです。けれども、悪魔の誘惑に負けて、神に背いたために、罪と死が入りこんできて、それ以来あらゆる問題が人類を悩ませ、不安や恐れをもたらすようにもなってしまいました。
愛の神は、このような人間を滅びより救う計画をお立てになったことを第8章で学びました。この章では人間はどうすればこの救いを自分のものにすることができるかを、聖書から学びたいと思います。
 人間の救いは、教育や意志の鍛錬(たんれん)とか修養では得られません。聖書は心が全く新しくされて、神と完全に調和する道を示しています。これは個人の経験となることが大切ですから、聖書の言葉をーつーつ学び、実行していく中で、心の中に起こる変化を体験していただきたいと思います。

1 放蕩息子のたとえ

キリストがお語りになった放蕩息子のたとえは、救いへの段階をよく示しています。
 「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカによる福音書15章11~24節)。
 このたとえ話は、ある裕福な家庭の父と子の会話から始まっています。この弟は平和で堅実な父の家の生活に嫌気がさして、違う世界を求めはじめていたのです。彼は自由に自分の好きなことができる世界を考えました。そしてその計画を実行するために、父親が生きているのに財産の分け前を要求したのです。普通では、こういうことはありませんね。当時のユダヤにおいてもこれはほとんどあり得ないことでした。もしも父親が財産の分け前を譲ることがあったとしても、いただく者は、それをどのように使うのかを説明して承諾を得なければなりませんでした。この父親はよほど気前のいい父親であることが分かります。
 このたとえの父は神をあらわしています。弟は人間の姿です。はじめ人間は神と共に住み、神は人間の父であったのです。しかし人間は神に従って生活することに満足せず、自分が神のようになろうとして、自分が自由にふるまうことができる世界を求めたのです。この弟の行動には人間がたどった道が描かれています。
 弟は自分に与えられた財産を持って、遠い国へ旅立ちました。遠い国-そこは、いわゆる自由の世界であり、弟息子の気持ちを考えると、何でも自分が好きなように出来て、この世の一見はなやかに見える生活の場でしたが、たとえ遠い国に旅立ったとしても、私たちは神によって養われ生かされていることには変わりがないのです。遠く離れるということは、心が神から離れているということを表しています。それは神から遠く離れた罪の世界だったのです。
 弟はそこで遊び暮らし、いつの間にかそのすべての財産を失ってしまいました。自分の思う通りの生活をして、全く自由にふるまったのですが、ほんとうに幸福ではありませんでした。
 財産をことごとく費やした時に、その国に大きなききんが起こりました。放蕩息子は生活の苦しさを感じはじめました。彼はやむを得ずある人のもとに行って豚を飼うことにしました。豚飼いはユダヤ人がいちばん軽蔑していた仕事でした。はなやかな夢をみて家を出た青年のさっそうとした姿は、もうどこにもありませんでした。
 このたとえ話に出てくる弟息子は、貧しい生活を余儀なくされ、しかも飢饉に見舞われたのですが、たとえ裕福な暮らしをしていたとしても、その周りには有り余るほどモノがあふれていたとしても、神を離れた人生は、この弟息子と同じく、依然として罪と死の問題を解決しておらず、命からほど遠い存在のまま暮らしていることになるのです。その人の人生には真実の希望がありません。その心には不安と恐れがあるのです。


 
 2 救いの段階

① 神を求めること
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10章17節)
最初の段階は、聖書の言葉、神の言葉を聞くことから始まります。しかし、もっと厳密に言うならば、神様がその人の心に働きかけ、心を動かして神を求めるようにしてくださることがその出発点となるでしょう。
礼拝に出席したり、このような聖書入門講座を学んだり、自分で聖書を読んだり、お祈りをしたり、信仰に関する書物を読んだりして神を求めることなどがそれにあたります。そのようにして、生命の源である神、天地の造り主であり、あなたを養っておられる神がどのように私をこれまでも支え、守り、愛し、生かしてくださっているかということを知るようになると、この神の前に自分の罪をも自覚するようになるのです。謙遜な思いで、自分のありのままの姿を自覚できるようになるのです。

① 罪を認めること
 このたとえの青年は、自分のやりたいことをしようということだけを考えて、家に対する責任も、父に対する感謝も忘れていました。そして今、豚飼いになって何とか生き延びようとしたのですが、生活の苦しさからのがれることはできませんでした。全く行き詰ってはじめて彼の心は、父親に向けられたのです。
「彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」(15章17~19節)
ここには、「彼は我に返って言った」と言われています。ここに使われている言葉は、自分自身を取り戻すという意味の言葉です。そして「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」と言うのです。
 救いに至るためには、神の前に自分が罪人であることを認めることです。十戒のような神の御心に照らして自分の心の中や、言葉、行動を振り返る時、罪を認めることができるようになります。

② 悔い改め
 この放蕩息子は心も体も限界に追い込まれた時、自分のほんとうのみじめな姿に気づき、父の愛を思い起こしました。父に申しわけないと思い、自分の罪を悲しみ、それから離れる決心をしました。これを悔い改めと言います。ほんとうの悔い改めは、罪に対する悲しみとそれから離れることを意味します。罪そのものを悲しむのでなく、罪の結果起きる苦しみや罰を恐れて、悪かったと思うだけでは、ほんとうの悔い改めにはなりません。人間が十字架を通してあらわされた神の愛を悟る時にほんとうの悔い改めができます。
 キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)と言われました。キリストは信仰生活のすべての助けを与えて下さいます。ほんとうに悔い改めることも、キリストの助けによってできるのです。そのことについて聖書は「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」(使徒言行録5章31節)と述べています。
 悔い改めは罪のゆるしの前にきますが、悔い改めるまではキリストのもとに行かれないというのではなく、キリストのもとに行って、その生涯と十字架を、この私のためのものとしてながめる時、神の愛を悟ることができ、ほんとうの悔い改めに導かれるのです。

③告白
 放蕩息子は、父のところに行って罪を告白しました。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28章13節)。告白の仕方ですが、すべての罪は神に対してのものですから、神に告白しなければなりません。しかしその罪が人に迷惑を及ぼしている場合は、その人に対しても告白すべきです。また一般に広く知れわたっている場合は、公に告白しなければなりません。しかし関係のない人に告白する必要はないのです。
 罪の悔い改めと告白は、ばく然としたものではなく、一つ一つの罪について具体的になされなければなりません。イスラエルの王ダビデは「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。」(詩編32篇3節)と自分の体験を語っていますが、私たちも罪をかくさないで、一つーつ処理すれば、すがすがしい気持ちになることができます。また、告白はただ口先だけのことではなく、心から悪かったと思い、生活の改変を伴わなければなりません。

⑤  信仰
 以上のような段階を通って、ひとり子キリストを十字架の死にわたすほど私たちを愛して下さった神の愛を悟り、神に従うことを決心し、イエス・キリストの身代わりの死を信じ、キリストを自分自身の救い主として受けいれるのです。
信仰とは、神を信頼し、自分自身を神にお委ねすることです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)。
 またどんな罪でもゆるして下さる聖書の約束を信じることです。
 「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(使徒言行録3章19節)。
 「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの第一の手紙1章9節)。
 こうしてすべての罪がゆるされ私たちは神に受け入れられて、心に大きな平安と喜びがやってくるのです。

3 信仰による義
 初期の教会の有力な指導者であったパウロは、キリストによって私たちの罪がゆるされ、神の前に正しいものとして受けいれられることについて、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ人への手紙3章21~24節)と言いました。
 また「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エペソ人への手紙2章4-9節)。と述べています。
 救いはキリストの十字架による賜物(プレゼント)で、全く神の恵みによって与えられるもので、私たちが善行を積んで得るものではなく、神が一方的に備えて下さったものです。私たちはただ信仰の手を伸ばして、この賜物を受けとるだけでよいのです。これはなんという大きな恵みでしょう。この救いの良い知らせを聖書は「福音」とよんでいます。この福音によって私たちは、神の前に全く罪のないものとして立つことができ、永遠の滅びを逃れることができるのです。
 救いは人間の行為にはよらないことを示すファリサイ人と徴税人のたとえが、ルカによる福音書18章10節から14節までにでています。
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』
 ファリサイ人は当時の宗教家で、善行を積んで救いを得ようとしていました。
一方徴税人は税金を集めてローマ政府におさめる役でしたが、いろいろな不正もやっていたので人々から軽べつされていました。それでも彼が心から悔い改めて罪のゆるしを求めた時、神は彼を正しい者として受けいれて下さったのです。これはキリストの十字架のあがないによるのです。
 放蕩息子のたとえにかえってみますと、息子を迎えた父の姿は、罪を悔い改める罪人を神がどのように見ておられるかを示しています。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
とあります。
 息子を迎えた父が、「いちばん良い服を持って来て、この子に着せ」たのは、信仰によって与えられる義をあらわしています。放蕩息子が罪をゆるされたばかりでなく、子として受けいれられたように、私たちも正しいものと認められて、神の家族として受け入れられるのです。このことを「義と認められる(信仰による義)」と言います。ここに神の大きな愛があり、キリストの弟子ヨハネはこの愛について「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(ヨハネの第一の手紙3章1節)と記されています。

 神の国にはいる人たちとは

 私たちは、悔い改めと信仰によって神の救いの恵みに与ることが出来るということを述べてきました。このことをさらに考えてみましょう。
 主イエスは、次のようなみ言葉をもお語りになりました。これをどのように理解されるでしょうか。
 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイによる福音書5章20節)
 律法学者やファリサイ派の人々というのは、当時の宗教的な指導者でした。旧約聖書をよく勉強し、それを人々に教えていた人たちです。そのような人々の義にまさっていなければ、決して天の御国に入ることが出来ないと言われたのです。
 律法学者やファリサイ派の人たちは、非常に熱心に自分たちの行いによって神の義を得ようとした人たちです。そこには、心からの悔い改めもなく、イエス・キリストを私の唯一の救い主として受け入れ信じる信仰もありませんでした。
 私たちが救われるのは、私たちの行いによるのではなく、ただイエス・キリストが成し遂げてくださった救いの御業によるのであるということをこのみ言葉は教えているのです。
 律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは、イエス・キリストがその御生涯において獲得してくださった神の義(神によって義と認められる)に他なりません。私たちの救いのためにこの世に生まれ、罪のない生涯を歩まれ、私たちのために十字架においてこの罪を贖い、よみがえってくださったイエス・キリスト、このお方に私たちの救いはかかっているのです。
 さらに、イエス・キリストは、天の国に入るものについて次のように言われました。
「18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
                (マタイによる福音書18章1~4節)
 私たちが普段暮らしているこの世の基準においては、権力を持った人、学歴のある人、高い地位についている人などが偉い人だと考えられている傾向があります。しかし、神様の目から見るなら、むしろ「心を入れ替えて子供のように」なることが不可欠なことだと言われたのです。
 ここに言われている「子供」とは、赤ちゃんや幼子のような小さい子供たちのことを言われていると思われます。小さな子供たちは、親に対する全き信頼をもっています。そしてこの親がいなければ自分は生きていくことが出来ないということを知っているのです。ここに、神に対する信仰の原点があると言ってもよいでしょう。しかし、私たちは大人になるにつれて、このような「信頼の心」を見失ってしまうようです。
 「心を入れ替えて子供のように」神を私の神として受け入れ、信頼し、自分自身をこの方に委ねていくことが求められているのです。このような信仰を与えてくださるのは聖霊の働きであることを述べてきました。聖霊によって、あの弟子たちが変えられていったように、その心が新たにされ、神によってその信仰と希望と愛が確かなものとされますようにと祈り願います。

第14章 救いへの道 3   理解のために

1)父親のもとから離れていった放蕩息子のような気持ちはあなたの中にもあるのでしょうか。

2)神を離れた人生は、根本的にはどのようなものだと思われますか。

3)悔い改めとはどのようなことでしょうか。

4)信仰とはどのようなものでしょうか。