聖書に、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」「人はうわべを見るが、主は心を見る。(新改訳)」 (1サムエル記16章7節)というみ言葉があります。人間が見ることは往々にして表面的なことであり、その内面にあることを理解したり受け止めたりすることがなかなかできないものです。しかし、神様は心をご覧になるというのです。神様が私たちに求めておられることは「真心」です。

1、福音が分かるとは
本当の意味で神の恵みが分かり福音が分かるということは、考えて頭で分かるというだけではなく、体験によって、愛され愛することによって「こころでわかるようになる」ということを意味しています。頭で考えているだけでは本当には分からないということです。
使徒ペトロはどのようにしてキリストの福音を知るようになっていったのでしょうか。
彼はユダヤ人ですから、子供のころからシナゴーグでの礼拝や学び、家庭における礼拝、国を挙げてのお祭りなど、数々の聖書に親しみ、聖書を学ぶ機会がありました。そうした中で彼はイエス・キリストに出会います。
福音書に記されているように、ペトロは漁師でありましたが、イエス様のふしぎなみわざを見、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1章17節)という言葉に従って主の弟子として歩むようになりました。
イエス様が弟子たちに教えたり、訓練する方法は、非常に実際的なものであり、イエス様ご自身の生き様を通しての教えであり、実生活のたとえを用いての教えが多くを占めていたようです。しかし、弟子たちは、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。」(マルコ8章17節)といわれているように、なかなかキリストの言葉も福音の意味も理解できていなかったようです。

ペトロはたいへんな自信家であったようで、イエス様がペトロの離反を予告なさったときにも、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マタイによる福音書26章35節)と力をこめて答えました。その結果は主が言われたとおりにべテロは、主を裏切り、3度イエスのことは知らない、と主を否んでしまいます。
こうした体験を通して、彼の心はまったく打ち砕かれて、自分の惨めな姿、弱さを持つ自分自身の姿をはっきりと見るようになるのです。
今までは、一番弟子で、自信を持って自分は大丈夫だ、あれもできるしこれもできると思っていたかもしれません。今までは、自分は信仰の男であり、裏切りなど絶対にしない男だと自分を見ていたのですが、突如として自分の裸の姿が見えてくる。
そして彼は激しく泣くわけです。
興味深いのは、イエス様が、ペトロよ、おまえの為にお祈りした。サタンが麦のようにおまえをふるいにかけるけれど、私はおまえの信仰がなくならないようにお祈りした。おまえが立ち上がったあとで、弟子たちを励ましなさいといわれ
ました。このときも主が守り導いてくださいました。大失敗を犯してしまった。しかしむしろその事によって、彼は本当に謙遜な者となって、自分を深く見つめるもの、信仰によって生きる者、指導者として整えられていくのです。
神の恵みが分かり、福音の真理が分かるようになるためには、聖霊による導きが必要です。そして彼が指導者として整えられていくためには、このような試練を通して自分の心が打ち砕かれていく必要がありました。頭で理解しているだけでは、本当に分かったということではありません。
信仰によって生きた神の民として、ペトロのほかにも、例えば、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロ、などあげることができるでしょう。

彼らはどういう人たちであったかというと、
彼らはまず第1に、神様に深く深くつながった人たちです。
時には逃げ出したいと思うこともあったかもしれません。
しかし、逃げ出したいと思っても逃げ切れなかった。
神様がしっかり捕らえているものですから、神様から逃げ出せなかったのです。
つらい、苦しい中で、試練の中で、砕かれた中で、失敗した中で、罪を犯した中で、罪を犯したから神様から離れてしまうのか、失敗したから神様から離れてしまうのか、不幸なことが起こったから神様から離れてしまうのかというと、彼らはむしろそのことによって神様に近づいて、より深くつながった人たちです。そのように神は彼らを捉えていてくださいました。
第2に、彼らは失敗しなかった、罪を犯さなかった人たちではありません。
数々の罪を犯したのです。しかし、そのような大失敗の経験を通して、被らの心が新しくされました。そのようにして彼らはむしろ深く神様とつながった人たちであります。
そして第3番目に、彼らは再起した人、再び立ち上がった人たちです。
これらの人たちの特徴は、全員が死を経験した人たちです。
讃美歌532番には、「ひとたびは死にし身も、主によりていま生きぬ」とうたわれます。これらの人たちの特徴は、人生のどこかで、死ぬという経験を最低1度、ある人は幾度も繰り返しています。
そして新しい人になるということは、一度古い自分に死んで、新しく再起したという人たちで、これらの人たちは全員死を経験した人たちです。自分を十字架につけるという経験をしたのです。
昔の私はもう生きていない。私は十字架につけられた。私が生きているのは、私のうちにあるイエス・キリストの力によって生きているのだ。そうした信仰的な理解があるのですが、これらの人たちは、全員その生涯において自分の死を経験いたしました。彼らは、霊的に自分に死んでまた生き返るという経験をしました。
ですから、これらの人たちから、復活の信仰、復活の希望についても教えられます。
そして最後には神様によって練られて、神様が芸術作品を作るように、主がともにおられて、その人を作り上げていってくださるわけです。この場合、人格的に立派な人になるというよりは、福音の種を豊かに育てていけるよい土地のように神の言葉を聞く心を育てられていくのです。
以上述べたことからも分かりますように、人は心で、人格的な神様との交わりの中で神に出合って初めて謙遜にされていきます。

イエス様はあるとき、パリサイ派の人と徴税人のたとえをなさいました。
ルカの福音書18章9節以下に書いてあります。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
パリサイ人は、「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』という祈りをささげるのですが、徴税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と神に祈りました。
そして、神に義と認められたのは、この徴税人のほうだと言われたのです。
このパリサイ人のようなかたくなな心を神様は望んでおられません。そうではなくて、自分の罪を認め、自分の弱さを正直に認めて、神に自分をおゆだねする心を求めておられるのです。

3、豊かな感性を祈り求めましょう
イギリスのダイアナ妃は、幼いときに両親が離婚し、父の再婚相手の継母とは折り合いが悪く、寂しい子ども時代を過ごしたと言われています。その時の不安や悲しみがその後の彼女の人生に影を落とし、さらに結婚当初からすでに破綻していた夫との関係に悩んだダイアナ妃は過食症に陥ってしまいました。
そしてあれだけ美しく魅力的な女性でありながら、自分は愛される価値のない者だという強迫観念から彼女は逃れることができなくなって、ある時から彼女は心理療法医に会ってカウンセリングを受けるようになります。
そこで自分と同じような悩みを抱えている人が数多くいることを知って驚くのです。人から愛されない、必要とされないと思っている人は自分だけではないことを知ったとき、彼女の目は社会的に弱い立場にいる人々へと向けられていくようになりました。

そのような折り、彼女の人生を変える出会いがありました。それが敬愛するマザー・テレサとの出会いです。
この出会いの中で、彼女は
「人をいやすためには、あなた自身が傷つかなくてはなりません」というマザーの言葉に心を動かされます。その言葉を聞いてダイアナ妃は、深く傷ついた自分ゆえに人に与えられるものがあることを発見し、多くの慈善事業に従事するようになっていくのです。人々から拒絶され、必要とされない人たちの内に、ダイアナ妃は自分の姿を重ねて見ることができました。彼女は、傷つき苦しんでいる人の心にふれることができた人でした。
ダイアナ妃は自分の辛い過去を嘆き、人々から愛され慰められることを一生求めながら生きることもできたはずです。しかし、かえってそのような負の経験を生かし、人々を慰め励ます生き方を選びました。
彼女がこのような人生を選ぶようになっていく背後には多くの人の祈りがあり、愛する人との出会いがあり、主なる神様の導きがあったに違いありません。
こうして愛されることより愛することを選んだとき、彼女自身もいやされ、生き生きと輝いていくようになりました。
自分の心と出会い、他者の心と出会っていき、その思いを共有していくという感性がとても大切なものであることが分かりますが、日本においてはこうしたことがあまり重要視されてこなかったように思われます。
横浜市立大学名誉教授の伊藤隆二氏は、日本の教育の現状について次のように述べています。「いまの教育は、知識の伝授と理解力の育成に、あまりにも偏りすぎていることを嘆かざるをえません。教育基本法の第九条第二項で、国公立の学校は、特定の宗教のための宗教教育をしてはならない、と規定されているものの、自然な、敬虔なこころをはぐくむ教育までもほとんど完全に除外してしまった学校が、偏った理性の啓培場になりさがったのは当然です。」「こころの教育14章P191」(伊藤隆二)
伊藤氏が指摘しておられるような日本の教育の現状は、障害者と健常者を分けて教育をする。もっといえば障害者は一般の学校に行って学ぶことが出来ないような制度、設備、体制になっていることにも現れています。
障害者との出会いがなぜ私たちの感性を育てるのかといえば、

1)自分が変わらざるをえない
ハンディキャップのある人とない人がいますが、ハンディキャップのある人と生活しようとすれば、どうしてもその人のことを、相手の立場に立って考えざるをえなくなります。
2)彼らがこころと出会うことに敏感である
差別されたり痛みを味わったりすることによって、人は心に敏感になるようです。それによって対人恐怖症のような病に陥る人もありますが、口先の言葉ではなくこころを見抜く人たちです。
3)彼らは喜びも悲しみも深い人たちです。すなわち感性の豊かな人が多いのです。
これは障害者がすべてこうだということではなく、一つの傾向を述べたに超ぎませんが、イエス様は、数多くの障害者の方々との出会いの中で、弟子たちがこころと出会うことが出来るように、豊かな感性を持つ者になるように彼らを訓練なさったに違いありません。
ですから、後になって、彼らは異邦人にも分けへだてなく福音を伝えるようになり、ペトロは皮なめし職人の家に滞在するようにもなってまいります。
冒頭に挙げた聖句、「人はうわべを見るが、神は心を見る。」を改めて思い起こしてみると、私たちの社会は、心で感じること、心と心の出会いをあまりにもおろそかにしているように思われます。また、主イエスが最も重要なおきてとして私たちに与えられたみ言葉も、心が強調されています。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの捷に基づいている」
興味深いのは、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして』。これらはみな心や感性に関わることです。この教えは、私たちに「真心」を求めるとともに「感性」が豊かにされることを祈り求めなさいという教えでもあると思います。
現在は、子供たちの不登校、学級崩壊などが起こるようになりました。こうしたことは、こころと出会っていない大人達への子供たちの警告であるように思えてなりません。自殺者は昨年度は統計を取り始めて高水準にあります。先進国といわれる国々で日本ほど自殺率の高い国はないのです。
愛に飢えている人が多いこの日本の社会に私たちは召されています。
神様は私たちの心をご覧になる神様でありますから、心が豊かに整えられていくように、キリストのこころに少しでも近づいていくことが出来るように祈り求めていきたいと思います。

第27章 心で分かる(理解する)世界 理解のために
1) 人はうわべを見るが、主は心を見る。という言葉を聞いてあなたはどのように思われますか。
2) 神の前に心が打ち砕かれるという経験をあなたもなさったことがありますか。
3) 神への信仰をもって歩んだ人たちはどのような特徴があるのでしょうか。
4) パリサイ人の祈りと徴税人の祈りはどのような違いがあると思いますか。
