日本に住んでいると、春夏秋冬という季節の移り変わりがはっきりしていて、それぞれの季節に美しさを見ることが出来ます。
一日が24時間で規則正しく動いていることも太陽系ばかりでなく、宇宙のあらゆる運行が、実に見事な調和のもとに動いていることを教えられる時、これらのものが決して偶然に出来たものではないということも教えられます。
「確率」について学びしている方は、この世界がこのように営まれていることは、例えば、時計をバラバラにして5階建てのビルから投げた時に、下に落ちるまでに完成された時計になって規則正しく動くようになっているようなことだと言いました。確率で考えれば、私たちが住んでいるこの世界は、とても偶然に出来るようなものではない。驚くほど緻密な秩序と調和の中で、営まれているものであることが分かります。
地球と太陽との距離が、あるいは地球と火星との距離が違っても、あるいはその大きさがわずかに違っても今のようなバランスの取れた運行をすることは出来ません。これは宇宙だけでなく、電子顕微鏡が発明されてミクロの世界を解明することが出来るようになった今、地球にある生命体が実に美しく、そのいのちの営みを行っているのかを知らされるとき、そこには人間をはるかに超えた創造主がおられることを実感をもって感じさせられるのではないでしょうか。

1 この世界と生物の起源について

 神様の存在について聖書は、ヘブル人への手紙3章4節に「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。」と言われています。これはまったく単純明快な答えです。家をみると、建設過程を見ていなくても、だれかが建てたと思います。もっともこの場合の考え方としては二通りあります。すなわち誰かが建てたと考えるか、自然にあるいは偶然にできたと考えるかです。しかし偶然に木材がより集まって家ができたと考えることは、非常に考えにくいことです。サルがキーボードをめちゃくちゃにたたいて、夏目漱石の小説ができあがる可能性はほとんどないのと同じです。家が偶然にできないとすれば、この宇宙は家よりもはるかに複雑な構造をもっているのですからただ偶然にできたとは到底考えられません。

① 現代の宇宙観

イザヤ書40章26節に「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」とあります。都会では最近星もよく見えなくなりましたが、夏の空に見える天の川はたくさんの星の集まりで、―つの宇宙をつくっています。これを銀河宇宙といいます。地球は太陽の回りをまわっている九つの惑星のーつですが、これらの惑星は太陽系を形作っています。太陽系にはこのほかに多くの小惑星や彗星などがあります。太陽系は銀河宇宙に属している星の集団です。太陽は地球の百三十万倍もある大きな星で、光と熱のエネルギーを地球に送り、地上の生命やあらゆる活動を支えています。ある人の計算によると太陽は、地球上で人類発生以来使ったエネルギーの総量を三万分の一秒で空間に放出しているそうです。
 太陽は銀河宇宙の中では中くらいの星で、銀河宇宙には太陽のような星が約一千億もあるのです。そのたくさんの星が、だいたい光の速さで十万年かかるくらいの空間に集まっています。地球のとなりの月までは約三十八万キロで、光で行けば一秒あまりの距離ですが、アポロ宇宙船が行くのはたいへんなことでした。まして光で行って十万年というのは、たいへんな距離なのです。しかしこれが宇宙の果てではありません。銀河宇宙を出るとしばらく星はありませんが、光にのって百八十万年くらい行くと、アンドロメダ星雲という銀河宇宙のような別の星の集団があります。これは銀河系外星雲といわれる、よその宇宙です。そして驚くことに、米国のウィルソン山の百インチ(2・5メートル)望遠鏡を使って学びした結果、銀河系外星雲も約一千億あって、銀河宇宙から遠いものほど、速く遠ざかっていることが分かりました。たとえば五十億光年の距離に存在する牛飼い座の星雲は、毎秒十一万キロという驚くべき速さで後退しているのです。

② 物質のはじめ

 そうすると始めの物質はどうしてできたかという問題がでてくるわけですが、これは科学が進歩した現代でも、なかなか簡単に答えられる問題ではありません。米国の物理学者ウィリアム・A・ファウラー博士は、元素がどうしてできたかを説明するにあたって、陽子と中性子という原子核をつくる二つの基本的な粒子から出発していますが、そこに次のように書いています。
 「これら陽子や中性子自身がいったいどうして創られたのかという疑問は、この章の範囲外のこととしよう。宗教的にしろ科学的にしろ、異常に信念の強い人だけが勇気をもって物質の創生という問題にとり組むことができるだろう」(『最新の宇宙像』61ページ)。
 この言葉は、物質がいかにしてできたかという問題は、一般の科学の範囲ではとりあつかえない問題であることを示唆しています。たとえ中性子や陽子が何か他の粒子からできたということがわかったとしても、さらにその粒子はどうしてできたかと次々に問いを進めていくと限りがありません。そこには人間の思考の限界もあるように思われます。
 聖書の創世記1章1節には「はじめに神は天と地とを創造された」と言われています。この世界の始まりは、神の創造によるものであって、神がこの世界の自然法則を作り、初めから秩序と調和を持った生命の宿るこの世界を造られたというのです。自然科学は、こうして作られた神の自然法則に基づいて作られてきたものなのです。ですから、この世界の初めについては、自然科学の法則によって説明することは出来ません。
 こんな話があります。ロバート・インガーソルは十九世紀のアメリカの有名な無神論者ですが、彼がある時すぐれた説教者であったヘンリー・ワード・ビーチャーを訪れました。部屋に入ると、天の星座をあらわした、立派な天球儀があるのに目をつけて、ビーチャーに言いました。「これは実に見事な天球儀ですね、だれが作ったのですか」。ビーチャーはちょっととぼけて、「だれが作ったかとおっしゃるのですか。だれも創りはしませんよ。偶然にここにあるのです」と答えたということです。日ごろ、この世界は神様がお創りになったことを信じないで、自然にできたと言っていたインガーソルも、この答えに満足はしなかったことでしよう。私たちがこの宇宙をみて、神様がこれをおつくりになったと信じることは、きわめて自然な考え方なのです。


③ 物質から生命は生まれない

この世界の生命や人類の起源について、私たちは学校で「進化論」を教えられて、「進化論」をそのまま受け入れている方も多いのではないかと思います。しかし、ダーウィンの進化論はあくまでも彼が考えた仮説であって、科学的に証明されたものではありません。これはむしろ考古学や分子生物学、言語学などの学びが進むにつれてダーウィンの仮説は誤りであったことが証明されてきているのです。「人はどこから来たのか」を読んでいただくと「進化論」の誤りとともに、神による創造が真実であることが科学的に見ても理解できると思います。
人類がどこから来たのか、ということについても、進化論のような仮説はありますが、それを科学的に証明することは出来ていません。
 雨水がたまったところには、いつの間にかたくさんの微生物が発生することがあります。そうしたことを見ながら、19世紀に至るまで多くの人々は、これらの生命は自然に発生してきたのではないかと考えてきました。
 しかし、1864年にパスツールが、完全に殺菌し、外部から菌が入ってこないようにしたところには決して生命は生まれてこないことを証明しました。物質から生命が生まれるということはあり得ないのです。いままでどのような実験においても、無生物が生物になることは、実証されていないのです。
 これは私たちも経験で分かっていることでしょう。部屋においてあった石ころからある日ねこが生まれたなどということはあり得ません。しかし、進化論を唱える人たちは、突然変異や自然淘汰によってとても長い年月が経過する中で、次第に進化してきたと考えました。1日や2日では出来なくても、何百億年もの年月が経過すれば、それは可能になるのではないかと仮説を立てたのです。
 最近になって、分子生物学の学びが進むにつれ、細胞や、細胞の構成物質のことがよくわかるようになってきました。それによって、無生物の中から生命が発生することは何億年かかっても起こり得ないことが、わかってきました。

④ 異なる種や不完全な生物は子孫を残すことが出来ない

 最近になって、私たちが手に入れることが出来る種は、そのほとんどがF1と言われる種になってしまいました。
 野口の種店主である野口勲さんは、「「雄性不稔」というオシベを持たない異常な株を利用して作られたタネが増えて、花粉ができない、子孫ができない、そういう野菜が増え続けている。雄性不稔の野菜かどうか、スーパーに並んでいるものを見てもわかりませんが、花を咲かせればすぐにわかります。試しに、スーパーで売っている大根やニンジン、タマネギなんかを庭に植えてみてください。やがて花が咲きますが、その花の先を虫眼鏡でよく見るとオシベがありませんから。オシベがない野菜ばかりになってるんです。つまり子孫を残せない野菜ばかりを食べてるんです」と言っておられます。
 また、生物の分類において、種とは、定期的に交配し、“繁殖力のある子孫を残す生き物の個体群”を指します。この定義で言えば、異なる種同士で交配すれば、繁殖力の無い子孫が生まれることになります。つまり、人間が人工的に作り出したラバやライガーのような交雑種は子を生まず、子孫を残すことができません。
 進化論では、サルから人間に進化したと説明されていますが、神様は初めからサルは完成されたサルとして、人間は完成された人間として創造されたからこそ、子孫を残すことが出来たのです。サルが80%人間が20%などというものは実際にはこの世界のどこにも存在しませんし、仮に存在することがあったとしてもそれらは子孫を残すことは出来ないのです。

⑤中間種はいない

 進化論者を支持する人たちは、今日まで、生物は単細胞生物→無脊椎動物→魚類→両生類→ハ虫類→鳥類やホ乳類→人間というように、下等なものから次第に進化してきたのだと主張してきました。
 しかし、もし本当にそのように進化してきたのだとすれば、これら生物の各種類の間に、「中間型」(移行型)の化石が、数多く発見されているはずです。しかし今日、世界中で様々な種類のおびただしい数の化石が発掘されていながら、真に「中間型」であると認められている化石は、一つも見出されていません。たとえば、アメリカの著名な古生物学者キッツ博士は、次のように述べました。
 「古生物学者は、中間型がないのが事実であるということを認める状態に、いよいよ傾いている」。
 創造論を支持する科学者として有名なギッシュ博士およびブリス博士も、次のように述べています。
 「化石記録上、種の間には整然とした間隔があります。進化モデルに基づいて期待される中間型の化石は、単細胞生物と無脊椎動物の間、無脊椎動物と脊椎動物、魚類と両生類、両生類とハ虫類、ハ虫類と鳥類またはホ乳類、または下等なホ乳類と霊長類のいずれの間にも見出されません」。
 かつて、「始祖鳥」が、鳥の進化途中の生物と考えられていたことがありましたが、始祖鳥の化石が出てきた地層よりもさらに古い年代とされる地層から完全な鳥の化石が発見されました。現在では、始祖鳥は中間種ではなく、絶滅した鳥の一種だと考えられています。

始祖鳥(想像図)               

始祖鳥の化石
「シーラカンス」も、今では中間種ではないと考えられています。シーラカンスは、現在もマダガスカル島沖で発見され、学びの結果中間種ではないと言われています。
 アメリカの著名な科学者ゲーリー・E・パーカー博士は、数多くの有害な突然変異のなかで、たとえ万一、その生命体に一つ、あるいは幾つかの「有益な」突然変異がおこったとしても、結局それも生命体を進化させることは不可能だったことを、明らかにしています。( 『インパクト』(聖書と科学の会)41号)
  突然変異によって引き起こされた欠陥や障害は、歳月とともに遺伝子の中に重い「遺伝荷重」を負わせ、積もり積もっていくからです。「遺伝荷重」とは、言わば生命体にかかる負担であり、それは遺伝的に次の代に伝わっていくので、代を重ねるごとに重くなり、ついには致命的なものとなるのです。
  したがってその過程で、有益とみえる変異がたまたま起こったとしても、積もり積もった数多くの障害の中で、それも役に立ちません。人間の場合でも、時に若返るように見えることがあったとしても、歳月がたてばやがて老いを迎え、死を迎えていくのです。   
実際に、一つの種から他の種に移行した生物を見た人、その中間種を見た人も、ひとりもいません。もしも人間がサルから進化して生まれてきたのであれば、この世界に30%は人間、70%はサル、90%は人間、10%はサルというような中間的な存在があちらこちらにいるはずなのですが、そういう者はどこにも存在しないのです。
サルはどのサルでも100%サルであり、人間はどの人間でも100%人間なのです。
神は、不完全な人間を創造されたのではなく、100%今の人間と変わりのない人間として創造されたのです。だからこそ、私たちの体はどれひとつとってみても無駄なものはなく、人としての営みをすることが出来、子孫を残すことも出来るのです。
詩編33篇6節には「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた。」とあります。すなわち物質の創造は、神様の御意思によって、神の言葉によって生まれてきたのです。

 さらに、「人はどこから来たのか」という小冊子を見ていただくと、この点についてもう少し詳細に記されています。よろしければお読みください。


2、ことばによる創造
 神は、ご自分を「有って有る者」と言われました。神は、「存在」そのものです。この存在そのものであるお方が、ご自分以外のものに存在を与えること、それが「創造」です。世界や人間は、「有って有る」お方から見れば「有って無き者」です。宇宙がどんなに大きなものであったとしても、人間がどんなに知恵や知識を持っていても、それは唯一の存在者によって存在を許され、また支えられているものに過ぎません。
 そして、神によって存在させられたものはすべて、その存在によって存在者である神を指し示しています。造られたものは、創造者を物語っているのです。詩編19:2-4に「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」とあるとおりです。科学者たちはその言葉を聞き取り、数式にし、化学記号で表わしました。哲学者たちはそれを考察して、論理を組み立てました。芸術家はその「美しさ」に触れて、それをさまざまな形に表現してきました。コスモスの花の形は r=a sin nθ という数式で、オーム貝のらせんは r=keaθ という数式で表わすことができます。松ぼっくりに見られるらせんもフィポナッチ数列で表わされます。
 なぜ、被造物はそのように神を語ることができるのでしょうか。それは、神が「ことば」によってこの世界を造られたからです。詩編33篇は「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(6節)「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」(9節)と言っています。それは神のことばによって造られたものであるので、神の「ことば」を語ることができるのです。
 「ことば」によって造られたというのは、知性のある人格によって造られたといういうことを意味しています。他の動物にも、その種族の中でのコミュニケーションの手段があり、いわゆる「ことば」があるのでしょうが、人間のように、ものごとを考察し、論理を構成し、新しいものを生み出していく「ことば」は持っていません。人間だけが「ことば」によってその知性を発展させ、さまざまなものを生み出し、社会を築きあげてきたばかりが、人格としての自分自身を磨きあげてきたのです。そうであるなら、世界を「ことば」で造り、人間に「ことば」をお与えになった神が、知性を持つ、優れたご人格であることは当然理解できることだと思います。
 世界は、じつに無駄なく、みごとに造られており、これを設計した神の知恵、これを形作られた神の力に驚かないわけにはいきません。「創造」を認めない人たちは、これを「偶然」が造り出したものだと言います。しかし、「偶然」は何も造り出すことはできず、どんな秩序も生み出すことはできません。進化論では、すべての生物は偶然から偶然を渡り歩いて生き延びてきたというのですが、たとえ40億年という時間があったとしても、とても考えられないことです。実際の自然の観察から得られる事実は、この世界の背後に知性による設計と、それを実現する力があったことを教えています。
 神がおられ、この神が「ことば」を語られる神であって、知恵と力に満ちておられることは、じつに被造物自体が雄弁に語っています。わたしたちは、この被造物の「ことば」とともに、神がわたしたちに直接語りかけられる、もうひとつの「ことば」、つまり、聖書のことばを持っています。世界をその「ことば」によってみごとに作ってくださった神は、今も、聖書のことばによって、信じる者の日々の生活と人生を形造ってくださいます。わたしたちに語り続けてやまない神に、わたしたちも耳を傾け、神のことばに聞き続けたいと思います。


第5章 神による天地創造   理解のために

1)あなたは天体の規則正しい運行や季節の見事に調和のとれた移り変わりなど、この自然界の神秘が偶然に出来たと思われますか。

2)あなたは、今私たちが生活している地球やこの宇宙がどのようにしてできたと思われますか。

3)自然科学の法則を用いて、この世界の成り立ちや物質がどのようにしてできたのかについて証明することが出来るでしょうか。

4) 物質から生命は生まれないということを証明したのは誰ですか。

5) この世界に中間種と言われるものが存在しないのはなぜだと思われますか。