わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。
日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。 イザヤ書45章5~7節

1 神はどのようなお方か
神とはどのようなおかたでしようか。ある人は、文化や習慣の違いによって、たくさんの神があると考えます。あるいは、神とは宇宙を支配する一つの力であるとか、原理であると言う人もあります。しかし、私たちのまことの神は、どのようなおかたでしょうか。ウェストミンスター小教理問答は、17世紀のイギリスの清教徒たちによって作られた信仰問答です。「契約」という言葉を手がかりに聖書全体を教えようとした信仰問答といえます。
ウェストミンスター小教理問答 問4では次のように言われています。
問4 神はどのような方であるか。
答 神は、その存在(1)と知恵(2)、力(3)、聖(4)、義、善、真実(5)において無限(6)、永遠(7)、不変(8)の霊(9)である。
1.出エジプト3:14、 2.詩編147:5 3.黙示4:8 4.黙示15:4 5.出エジプト34:6、7 6.ヨブ11:7、8、9 7.詩編90:2 8.ヤコブ1:17 9.ヨハネ4:24
第4問は神様が一体どんな方なのかという問いです。英語の原文を見ると、この質問はWhoではなくWhatと記されています。神様が誰(Who) なのかということは、私たち人間には知ることができませんが、その属性が何(What)であるかについては、知ることができるのです。
「What is God?」
この質問に対して正しい回答をするにはどうすれば良いでしょうか。
それは「神様が私たちに教えて下さればわかる。」というのが答えです。
神についての問いは、一般的な科学や哲学でもって、ある存在を探求する知識とは根本的に種類が違うものなのです。

仮にコップとバケツがあって、この中にソフトボールを入れるとします。
ソフトボールはバケツの中には入りますが、コップの中には入りません。
私たちと神様を比べてみれば、私たちの方が器が小さいので、私たち自身で大きな神様を把握することは出来ないのです。神様は私たち人間が分析して把握することのできる方ではありません。
私たちは有限の存在ですが、神様は無限です。有限は無限を知ることはできないのです。
けれども、神様は聖書によって、私たちが理解できるように、理解できる範囲でご自身のことや救われるために必要なことを教えてくださっていますので、私たちは聖書を見れば神様が一体どんな方なのか、どのように生きることが私たちの人生を有意義なもの、命ある人生とすることが出来るのかを理解することが出来るようになるのです。
第4問の質問「神とはどんなかたですか。」の答えも聖書に記されています。
人は聖書を通して神様を知り、この世界の真理を知ることが出来るのです。
聖書はその冒頭部分から神様を紹介しています。「 はじめに神は天と地とを創造された。 」このように聖書は始まります。
「神様は霊であられ‥無限、永遠、不変の方です。」
何が無限で、永遠で、不変なのでしょうか?
神様の存在、知恵、権能、聖、義、慈愛、真実が無限、永遠、不変なのです。
この属性は人が持っているような簡単に変化してしまう軟弱な属性とは違います。
神様の属性は完全なものであって変わることがありません。

2 ただ一人のまことの神
世界にはたくさんの国がありますが太陽は一つしかありません。なるほど国によって、人種や文化、習慣やしきたりなどが違います。しかし、どこの国でも、ただ一つの、同じ太陽が照っています。
私たちの造り主であられる神についても同じです。まことの神は、たったひとりしかおられません。日本の神、アメリカの神などというものではなく、人種や風俗、習慣の違う世界中の人の神であられるのです。
聖書において御自身を啓示された神は、聖書全体において「神がどのようなお方であるのか」を明白に示しておられますが、冒頭に記したイザヤ書45章には次のように言われています。
わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。
日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。
光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。 イザヤ書45章5~7節
世の中には2種類の神があります。
まことの神は唯一であると聖書によって教えてくださっていますが、この世の人々が考える神々には大雑把に言って二種類の神があるということが出来ます。一つは、人間を造った神であり、もう一つは、人間が造った神です。
「が」と「を」の違いですが、この内実はずいぶんと違います、一方は、私たちにいのちをもたらし、これをはぐくんでくださる生ける神であり、もう一方は、人間の心の中だけにあり、人間の欲望に仕えようとする死んだ神です。人間が作った神々は、神ではなく偶像なのです。
実際のところ、まことの神は、ただひとりしかおられません。偶像の神の虚しさについてエレミヤ書には次のように記されています。
◆偶像とまことの神
10:1 イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。
10:2 主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。
10:3 もろもろの民が恐れるものは空しいもの/森から切り出された木片/木工がのみを振るって造ったもの。
10:4 金銀で飾られ/留め金をもって固定され、身動きもしない。
10:5 きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず/歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも/幸いをもたらすこともできない。
10:6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方/御名には大いなる力があります。 エレミヤ書10章1~6節
また、使徒パウロは多神教の世界であるアテネの人々に向かって、次のように述べています。使徒言行録17章です。
17:23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
17:24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
17:25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
17:26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
17:29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
このまことの神は、目に見えない「霊」であられます。また、正しいことだけを愛し、すべての人をその行ないによってさばかれる義の神です。
さらに、私たち人問と同じように、見たり、聞いたり、考えたりする人格を持っておられます。この神は、すべてのことを知っておられる全知の神であり、どのようなことでもできる全能の神であられます。

3 神様の御性質(属性)
神様の御性質の主なものを考えてみたいと思います。創世記1章27節には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と言われています。人間はそれぞれ人格を持っていますが、それは神にかたどって人間が造られたから人間も人格を持つようになったということです。
人間には、物事を考えたり、本を読んだり、工夫して様々なものを作ったりできるような「知性」があります。また、喜怒哀楽という「感情」を持っていますので、美しい景色や絵を見て感動したり、病気で苦しんでいる人の気持ちを受け止めることも出来るのです。さらに、物事を計画したり、様々な問題に対して決断をしたりするような「意思」があります。それは人間が神のかたちに似せて創造されたからです。神様はそのような人格を持っておられるということです。
人格の本質は、自分を意識することができ、自分で決断することができることであると言われています。そこには知性や感情、意志というようなものがあります。神様も人格を持っておられますから、人間と同じように語り、感じ、喜び、悲しまれるのです。ただ人間とちがって神様の人格は完全で、人間のように欠点はありません。神様は肉眼で見ることはできません。それは目に見える体をもっておられないからです。人間は肉体をもっているので、目に見えますが、よく考えると、目にみえるのは私の体であって、私の心や魂は肉眼で見ることは出来ません。
私の個性とか人格は体によって表現されることもありますが、私たちの本体は体に宿っている魂であるといえます。それはやはり目にみえないものです。その意味でも私たちは本質的に、神様と似た存在なのです。ですから神様を認めることができますし、神に祈ることも礼拝することも出来るのです。人格を持たない人間以外の動物ではそれが出来ません。
神様を認めることについて、英国の有名な歴史家アーノルド・トインビーは『未来を生きる』という本の中で、「宇宙を形造っているすべての事物の背後、そしてその彼方には、-これは私の信念ですがーこの宇宙に意味と価値を与えている何か究極的な精神的存在といったものが存在しています。・‥・宇宙の背後にあるこの精神的な存在を私が信ずるということは、―つの信仰です。この精神的な存在があるということの証明は、私にはできません。・・・・私はただ人間性の精神的な側面で私が直接経験したことから、その存在を感じとるのです。たいていの時代、たいていの場所で、たいていの人が、同じように感じて悟ってきました」と言っています。私たちは神様の存在を、私たちの本質的な直観で感じとることができるのです。
先に紹介した、ウェストミンスター小教理問答書には、次のように言われていました。「神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」ここに神様のご性質が示されています。
① 全知
神様はすべてのことを知っておられます。「わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。」(詩編147篇5節)。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。」(ヘブライ人への手紙4章13節)。また私たちの心の中まで知って、理解と同情を与えて下さるのです。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。」(詩編139篇1~8節)。
神様は私たちが何を必要としているかも知っておられ、私たちが神様に求めるならば、最善のものを与えて下さいます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイによる福音書6章31~33節)。経済変動のはげしいこの時代にも、神様に頼れば安心していることができます。また神様は将来のことも知っておいでになり、それが聖書の中に多くの預言としてあらわれています。
② 全能
「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。」(エレミヤ書32章17節)。「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」(マタイによる福音書19章26節)。全宇宙を創造された神様には、おできにならないことはないというのは当然のことです。私たちがこの神様に信頼するならば何の不安も、心配もなくなります。
③ 義
「正しい裁きは御座の基/慈しみとまことは御前に進みます。」(詩編89篇15節)。神様は絶対に正しく、また正義と公平をもってこの世界を支配しておられます。
④ 愛
「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの第1の手紙4章8節)。この事実を聖書はくりかえし、くりかえし教えています。この愛はただ感情的なものではなく、意志を土台としたものです。神様は創られた人間の一人ひとりを愛しておいでになります。これは神様の強烈な意志です。イザヤ書49章15節には 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49章15節)とあります。神様は私たちが神様を忘れ、あるいは神様に反抗してもなお愛して下さるのです。そして忍耐をもって、私たちが神様に帰るのを待っていて下さるのです。放蕩息子が悔い改めて帰ってくるのを待っている父親のように、神様を忘れて、自分の愚かな道に歩んで行きづまった人間が、神様の愛を見いだして、再び神様に帰ることを待ち望んでおいでになるのです。

第3章 神はどのようなお方か 理解のために
1)一言で言えば、あなたはまことの神はどのようなお方であると思われますか。
2)人類はこれまでも、様々なかたちで神を追求してきましたが、有限な人間は神を把握することが出来るのでしょうか。それが出来ないのであれば、私たちはどうしたら神を知り、理解することが出来るのでしょうか。
3)偶像とまことの神はどのような違いがありますか。
4)神はどのような御性質を持っておられますか。
