1 すべての人を創造し、守り、育んでいてくださる神・
  特別な〔助け主〕〔弁護者〕としての聖霊

 私たちは、一人で生きていくことは出来ません。お百姓さん、会社の事務員さん、電車の運転手さん、役所の公務員として働いている方々、病院の看護師さん、老人ホームの介護士さん、保育園の保母さん、学校の先生、ご主人や奥様など、いろいろな方々のおかげで今日もこの暮らしが守られてきていることを思います。お世話になっている方々に、心より感謝をささげたいと思います。
 さらに、これらのすべての営みの背後には、神様のお守りがあり、私たちはみな、この方によって生かされ、支えられてきた一人一人であることを思います。

 14章でも少し聖霊についてふれましたが、ここではもう少し詳細に、私たちの〔助け主〕であり、〔弁護者〕である聖霊について記してみます。また、これは「キリスト教入門講座」「聖書への手引き」という形で初心者の方に向けたものですが、洗礼を受けたクリスチャンの方々にはさらに詳しく「聖霊について」の理解をさらに深めていただけるようにしたいと思います。

 主イエスは、いよいよこれから十字架につけられるという時、弟子たちに対して、「弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネによる福音書16章7節)と約束してくださいました。また、「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(16章8節)さらに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(12~13節)と言われています。

 クリスチャンの生活は、神によって新しくされた者としての人生であり、それは聖霊によって導かれ、守られ、支えられて生きる人生。すなわち神と共に生きる人生であるということが出来ます。

2 ボンヘッファーの詩から

 第二次世界大戦中に、ドイツ告白教会闘争を担ったディートリッヒ・ボンヘッファーをご存知の方も多いでしょう。キリスト教のプロテスタント・ルーテル派の牧師です。彼はナチス・ドイツ時代に、神に従う者としてナチスに反対また抵抗をし、ヒトラーの暗殺計画にも加わります。残念ながら結局は捕えられて収容所に送られ処刑されてしまいましたが、彼は処刑される最後の2年間を獄中で過ごしました。彼が処刑されたのはヒトラーが自殺するわずか3週間前でした。しかしその獄中の中で彼は多くの論述と詩を残しています。この詩は、ドイツ秘密警察の監獄の中で作られましたが、そのときは、ベルリンは激しい空襲を受けていたといわれています。その空襲で自分たちのいる監獄も焼かれて死ぬかも知れないし、ドイツ警察によって殺されるかも知れない、いずれにしてもどこを見ても闇と混乱と破壊が押し寄せている状況にありました。

新しい1945年  よき力に

よき力に真実に、そして静かに取り囲まれ、
不思議にも守られ慰められて、私は毎日毎日をあなた方と共に生き、
そしてあなた方と共に新しい年へと歩んで行く

過ぎ去った年は私たちの心をなおも悩まし、
いまの悪しき日々の重荷はさらに私たちにのしかかるだろう。
ああ、主よ。
この恐れ惑う魂に、あなたの備えて下さった救いを与えて下さい。

あなたが苦き杯を、あの苦しみの苦き杯を、
なみなみとついで差し出されるなら、
私たちはそれを、ためらわずに感謝して、
あなたのいつくしみ深き愛の御手から受け取ろう。

あなたがこの闇の中に持って来て下さったともしびを、
今日こそ暖かく静かに燃やして下さい。
御心ならば、私たちを再びともに会わせて下さい。
私たちは知っている。
あなたの光が夜の闇をつらぬいて輝くことを。

静寂が今や深く私たちのまわりを包む時、
共に聴こうではないか。
ひそやかに私たちの回りに広がっていく、
世界の豊かな音の響きを。

善き力に不思議にも守られて
私たちは心安らかに来るべきものを待つ。
神は朝も夜も、また新しい日々も
必ず確かに私たちと共にいて下さる。

 これは獄中からの神への賛美でもあり、「善き力に我囲まれ」という題で讃美歌21の469番にもなっています。ドイツでは年末とともに春の訪れを覚える3月にも歌われるそうです。
讃美するたびに当時の闇と恐れのただなかにあっても、なお神の善き力に守られているという信仰を保ち続け、そのゆえに希望を持ってその苦しい日々を戦っていた一人の魂が身近に迫ってきます。

 私たちの人生においても、私たちの存在が巨大な悪の力によって押しつぶされそうになるときがあるのではないでしょうか。そのような時、ボンヘッファーはその全存在をもって戦い、耐え、時としてはげしく動揺を経験させられるただなかにあって、神の光を見ることを得て、このような詩を作ることができたのでした。これは、あとの世代に残されたボンヘッファーの遺言のようなものだと感じます。
 悪の勢力が周囲全体を取りまき、怒涛のように弱き者を押しつぶしていく、そのような時にあってもなお、彼は、「私たちのまわりに広がっていく、世界の豊かな音の響き」を聞き取っていたのがわかります。そして、押し寄せる闇の力にも増して、彼は不思議な神の力によって守られているという実感をも持っていたのです。


3、キリストの霊


 使徒信条は、父を信じ、御子を信じ、聖霊を信じると言っています。この順序は大切です。なぜなら神を知り、信じることができるのは、「神の霊」に満ちた御子イエスによってであり、御子イエス・キリストを知り、信じることができるのは、「キリストの霊」である聖霊によってだからです。
 私たちは、イエス・キリストを知るまでは、「神」というお方を漠然としてしか知りませんでした。日本では、自然のひとつひとつが神であるかのように考えられています。太陽や月などの天体も、山や森、川や海なども、それ自体が神で、人々はそれを拝んできました。一般の人よりすこしすぐれたところがあれば、そういった人もまた神として祀られてきました。そういうわけで日本には数多くの神々がいるのです。クリスチャンが「私は神さまを信じています」と言っても、「ああ、そうですか。いいことですね。ところで、どの神さまですか」ということになります。
 韓国では「神さま」を「ハナニム」と呼びます。「ハナ」というのは「ひとつ」という意味ですから、神を、「おひとりさま」と呼ぶのです。日本語で「おひとりさま」というと少し違った意味になりますが、この場合は「唯一のまことの神」という意味です。神はおひとりであって、「どの神さま?」と問う必要はないのです。韓国にクリスチャンが多いのは、神についての概念がはっきりしているからかもしれません。
 使徒信条は、「全能の父なる神を信ず」と言い、続けて「その独り子を信ず」と言っています。つまり、私たちの信じる神は「イエス・キリストの父なる神である」と言っているのです。聖書に照らして考えてみるならば、「どの神さまですか」という質問に対する一番良い答えは「イエス・キリストの父なる神」という答えです。
 ヨハネ1章18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言われています。神は完全に聖なるお方、この世界を超え、人間の認識能力を超えたお方です。罪ある人間には神を見ることはできないのです。神は天体望遠鏡でも、電子顕微鏡でもとらえることはできません。どんなスーパー・コンピュータによっても分析できません。神は物質でも、原理でもありません。生きておられるご人格です。人格だけが神を現すことができ、人格だけが神を知り、信じることができます。神様は、私たちが神を身近に理解し、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によってその罪を赦されて、本来、私たちが生きることが出来る「天の故郷」に導くために、神のひとり子を人としてお遣わしくださったのです。神の御子は「イエス」という名を持った人間としてこの世に生まれ、この世で人々と共に生き、見えない神を見える姿で現してくださいました。
 イエスは「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14章9節)と言い、弟子たちは、主イエスについて次のように語りました。
「1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ第一の手紙1章1~4節)
この言葉の通り、イエス・キリストは、私たちがその声を聞き、その姿を見、そして手で触れることができる神として来てくださったのです。私たちは、イエス・キリストのご人格、みわざ、教えの中に神を見ます。神をイエス・キリストの父として知り、神とはこういうお方だと、はっきり言うことができるのです。それはなんと幸いなことでしょう。
 そして、もっと幸いなことは、聖霊が私たちの内側に住んで、私たちが神とキリストとを信じることができるようにしてくださったということです。「信じる」ことは「知る」ことから始まります。私たちはよく言います。「頭では分かるんだけど、なかなか信じることができないんですよ。」しかし、信仰を持てないでいるのは、「分かったつもり」でいるだけで本当には分かっていないからかもしれません。信仰を持ちたいなら、指導者からきちんと聖書を教えてもらい、本気で学ぶ必要があります。


 聖霊によって私たちの心が新しくされていくために覚えておきたいみ言葉があります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10章39節)。これは「自分を神とすることなく、神を神として生きること」と言い換えてもよいでしょう。神を信じるとは、神を私の神として信じることであり、神に自分自身の主導権を渡すことに他なりません。この方にすべてをお委ねすることです。
信仰はたんに神がおられることを認めればよい、イエス・キリストについての何らかの知識を持っていればよいというものではありません。信仰は人格である私が、偉大な人格である神に信頼すること、人格と人格の関係です。そして、神とキリストと「私」とを信頼関係の中に結びつけてくださるのが、もうひとりのご人格である聖霊なのです。別の言い方をすれば、聖霊が私たちの内面の最も深い部分、私たちの「霊」に働きかけ、「霊」である神への信頼を呼び覚ましてくださるのです。
 イエス・キリストを信じた者は皆、聖霊によって教えられ、信仰の目を開いていただき、信仰の告白に導かれたという体験を持っています。聖霊は「キリストの霊」であり、キリストが私たちのためにしてくださった救いの恵みを私たちに知らせてくださり、私たちがこの世にあって神と共に生きることが出来るように、あらゆる面で私たちを守り導いてくださいます。この聖霊により頼んで生きるとき、私たちはさらに神を知り、より深くキリストを信じることができるようになります。ですから、使徒信条が「我は聖霊を信ず」というとき、それは、「私は、聖霊によって、神とキリストを信じる者とされました」ということを言い表しているのです。


4、祈りの霊
 キリストは神の御子として神を現し、聖霊は「キリストの霊」として、私たちの内側でキリストを示してくださいます。聖霊は神とキリストの代理者ですが、同時に、聖霊は、キリストを信じる者の代理人でもあるのです。キリストは神によって遣わされた者ですが、この方は神であるとともに人であるお方なので、誰よりも正確に、十分に神を指し示すことが出来るのです。
キリストは、人間に神を示しただけでなく、人間の立場に身を置いてくださって、十字架で身代わりの死を遂げ、復活し、天でこの世界のために父なる神にとりなしておられます。神と人間の間に立ってとりなしをするというのは、祭司に与えられた務めです。神であり、人であるお方、人となられた神であるイエス・キリストだけが、この祭司の務めを完全に果たすことができるのですが、聖霊は、父なる神が計画された救いの御業をキリストが実現してくださったことを私たちに理解させ、信仰を与え、実際に救いの恵みに与ることが出来るようにしてくださるのです。
 ローマ8章26~27節には次のように書かれています。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」
私たちは、あまりにも苦しいことがあると、「天の父よ」と祈りはじめても、その後に祈りが続かないことがあります。ただうめくだけ、涙を流すだけということがあります。しかし、聖霊は、私たちのうめきと共にうめいてくださる。言葉にならない祈りであっても、私たちの心が神に向かうとき、聖霊が私たちのためにとりなしてくださるのです。
 祈りは、言葉数が多ければよいというものではないと思います。スラスラと祈ることができることが、信仰深さを表すとは限りません。ほんとうに神に近づき、そのきよさや恵みに心が打たれ、ただ「主よ」としか呼ぶことができなくなることもあるのです。人間の言葉が退き、深い沈黙の中で祈るということもあります。「霊で祈る」とは、そういう状態を指します。そこでは聖霊が、信仰者の霊と共に祈っておられるのです。
 神のお心の中にあるすべてを知っておられる聖霊は、同時に、私たちの思いのすべてを知っていてくださいます。私たちはどんなに頑張っても、完全にみ心にかなう祈りはできません。聖霊なしには、私たちの祈りは、自分勝手であったり、的外れであったり、足らなかったりします。けれども、神のみ心と人の思いの両方を完全に知っておられるお方が、とりなし祈ってくださるとき、私たちの祈りは神のみ心にかなったものとなるのです。「私はちゃんと祈ることができる」などと、自分の祈りに信頼するのではなく、聖霊が祈ってくださることを信じ、とりなしてくださることに信頼して祈りましょう。それが「愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。」(ユダ1章20節)と言われていることなのです。
 聖霊は、神ですから、私たちが聖霊に祈るのが当然なはずです。ところが聖霊は、あえて、人間の側に立って、人間と共に父なる神に祈ってくださいます。仲介者というものは、双方に平等でなければなりませんが、神と信仰者との仲だちをしてくださる聖霊は、人間的な言い方をすれば、信仰者のほうに肩入れをし、信仰者の側に立って働いてくださるのです。ですから、「我は聖霊を信ず」とは、私のすべてを知りながら、私のためにとりなし、徹底して私の側に立ってくださり、私の助け主となってくださる聖霊に頼りますという、信仰の告白なのです。聖霊は「神の霊」として、私に父とキリストを教えてくださる。「キリストの霊」として私をイエス・キリストへの信仰に導いてくださる。そして「祈りの霊」として、私の祈りを、日々の信仰の生活を助けてくださる。私たちは、そのことを、「我は聖霊を信ず」と言うことによって言い表しているのです。きょうも、「我は聖霊を信ず」と告白し、聖霊によって神を知り、キリストに従う生活へと導かれていきましょう。


第18章 〔助け主〕〔弁護者〕としての聖霊 理解のために

1) ボンヘッファーの「よき力に」という詩についての感想をお聞かせください。

2) ヨハネによる福音書1章18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言われています。このことについてあなたはどのように思われますか。

3) 神をはっきりと私たちに指し示すことの出来る方があるとすればどのような方であると思いますか。

4) 聖霊は、私たちのためにどのような働きをしてくださるのでしょうか。

5) 聖霊に導かれるとはどういうことでしょうか。どうしたら聖霊に導かれることが出来ると思いますか。