1、聖霊をお与えになる約束


主イエスは、やがて十字架におかかりになる前、弟子たちに次のように約束しておられました。
14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14章16~19節)
14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(ヨハネ14章26節)
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(ヨハネ15章26節)
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。(ヨハネ16章7節)


 聖書において聖霊は、「弁護者」あるいは、「助け主」と言われていますが、聖霊は、神ご自身です。神様は、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神です。同じ神としての本質を持っておられて、私たちの救いのために、私たちの生活すべてにおいて、守り、支え、導いてくださっています。
旧約聖書の時代にも聖霊の働きはあったと思われますが、その働きは預言者などに限定され、働き自体もかなり限定されたものでした。けれども、イエス・キリストによる罪の贖いが実現され、イエス・キリストが神の右の座に御着きになった後、送られた聖霊は、そのような限定された働きではなく、私たちが直接神との交わりを与えられ、神と共に歩むことが出来るようにされたのです。
マタイによる福音書13章17節には、「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」と言われています。

旧約時代には、救いの約束が預言として与えられつつ、神の導きをいただいた時代でしたが、新約時代は約束が成就し、イエス・キリストによる救いの御業が実現され、聖霊があらゆる人たちに注がれて、神とのさらに豊かな交わりに生きることが出来るようになった時代なのです。
今、このようにしてキリスト教入門講座によって聖書を学ぶ機会が与えられているということの中にも、聖霊の導きがあることを思います。
「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と言われているように、私たちが聖書を学ぼうと思う気持ちを与えられたのも、これを理解させてくださるのも聖霊の働きによるのです。
また、1コリント信徒への手紙12章3節には、「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」と言われているように、私たちが神の救いの恵みに与ることが出来るために、私たちの心に信仰を与えてくださるのも聖霊によるのです。


 神の国においてはどんな人でも、神の救いの御業を理解し、聖霊が注がれて私たちの主イエス・キリストの神がともにおられるという時代であるということが、はるかに大きな恵みの時代にあるのです。
私たちが、主なる神に出会い、救われるみちすじをイエスキリストが切り開いてくださいましたが、その救いを私のものにするために、神様は聖霊を与えてくださいました。
あなたは自分の決断で聖書を学び、このようなキリスト教入門講座を学んでくださっておりますが、これはあなたにそのような願いを起こさせてくださる神様の働きがあったのだということをも覚えてください。
「あなた方に願いを起こさせ、それを実現に至らせてくださるのは神です。」(フィリピ信徒への手紙2章13節)と言われているとおりです。私たちが神を信じて救われるのは、実は私たちのうちに働いてくださる聖霊の働きがあったのです。
それは、私たちを内側から新しくし、福音を私への福音として聞く心を与えてくださるのです。これを新生、あるいは再生とよびます。これが信仰への神の決定的な召しなのです。聖霊によって導かれ、新生した人は、福音を聞いて悔い改めと信仰に導かれていきます。祈りをもって、聖霊のお働きに私たち自身をゆだねていきましょう。


2、生命にいたる悔い改め
イエスキリストが救い主であり、私たちのために十字架であがないの死を遂げてくださったことは分かりましたが、次の問題は、どうしたら私が救いを得ることが出来るのかということです。キリストのあがないを私のものにする実際的な方法です。
この点についてイエス様は、「悔い改めて、福音を信ぜよ。」(マルコ1章15節)と言われました。また、パウロは、自分の説教を要約して、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきた。」(使徒20章21節)と言っております。
私たちが実際に救いを手に入れるためには「悔い改めと信仰」が必要なのです。この二つは別々のものではなく、お互いに関係しあい、悔い改めが深ければ深いほど信仰も増していくといってよいでしょう。
 悔い改めは、反省や後悔とは違います。また、いわゆるザンゲでもありません。ギリシャ語で悔い改めとは、「心を変える」ということです。つまり、今まで神のことなど考えず、自分の願いや欲望のままに生きてきた人が、神に立ち返り、神と神として生きるようになるということです。
そのためにはまず、第1に自分の罪を正直に認めることです。あの人はどうだ、この人はどうだという前に、自分は神様の前にどうであるか、正直に自分自身を見つめるなら、自分には罪がないといえる人は一人もいないでしょう。
そして、罪を赦してくださる神に自分をゆだねることです。自分の主導権を自分が握るのではなく、神に明渡していくといってもよいでしょう。このようにして、あるがままの自分を覚えつつ、神を神としていくように、神様の恵みのうちに生きるように方向転換をしていくことが悔い改めです。


3、キリストへの信仰
では、信仰とはどういうことでしょうか。信仰については、神の救いの恵みを受け取ることだと述べてきましたが、もう少し掘り下げて改めて信仰について記してみます。
 それは第1に、知るということです。
 信仰の対象である神をきちんと知ることです。「イワシの頭も信心から」という言葉がありますが、このような信仰の対象をきちんとわきまえないあり方では、信仰とはいえません。
何を信じるのか、私たちが信じるに値する神様とはどういうお方であるのかということを、聖書によって、また聖霊によって正しく理解することが大切です。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)
第2は、受け入れることです。
信仰は単なる理解以上のものです。聖書を学んで得た知識によって、自分の罪を認め、この私のためにイエス様が十字架で死んでくださったことを認め、感謝を持って、わが主、わが救い主としてイエスキリストを受け入れることです。
歴史の年表を暗記するように、イエスキリストの生涯を知っていても、それだけでは何の役にも立ちません。このイエスキリストを私の救い主、キリストとして受け入れる信仰の決断が必要です。
第3は、信頼してお任せすることです。
イエス様を受け入れることまではしていても、信頼してお任せすることがないために信仰の喜びや確信をもてない人がいます。これは残念なことです。
本当に信頼できるもの、信頼すべきものを求めてください。生まれて間もない赤ちゃんや幼児は、お母さんに信頼しています。誰が教えたわけでもないのに、お母さんが一番、お母さんナシでは自分が生きていくことが出来ないことをよく知っています。
イエス様は、人々が幼子たちを自分のところに連れてきた時、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカの福音書18章16〜17節)
信仰とは神に信頼することです。私たちの造り主であり、私たちのいのちを今日も育んでくださり、イエスキリストにおいて深い愛を示してくださっている私たちのまことの父を信頼することです。
信仰を持つようになるということは、信頼すべきものを回復させられていくことです。幼子であったときは、両親を信頼していました。しかしやがて大きくなってくると、その両親にも限界があったり、欠けたところや弱さも罪もあることが分かるようになります。あの人この人から傷つけられたり、裏切られるようなこともあるかもしれません。この世には完全な人などいないことにも気が付くようになります。
それである人は、「信じられるのは自分だけだ」という思いの中で、自己啓発に取り組もうとします。心理学の成果から見れば、確かに肯定的な考え方は大切なのですが、それでも「自分がそれほど信頼できるのか」ということについては、正直に自分を振り返ってみるならば、自分のうちにもさまざまな欠けがあり、弱さも罪もあることを認めざるを得ないのです。
先に、「私たちは神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは、平安がない」というアウグスティヌスの言葉をご紹介いたしましたが、これは私たちはみな真実に信頼できるお方にめぐり合うまでは平安がないということでもあります。聖書によってご自身を自己紹介しておられる私たちの父なる神を知って、この方に信頼して生きることがすなわち信仰なのです。


4、信仰による救い
聖書の中には、わたしたちが信仰によってのみ救われるという言葉がくり返し、くり返し出てきます。今、その幾つかをあげてみましょう。
「この方(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節)。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」、「信じる者は永遠のいのちを持ちます」、(ヨハネ3章16節、36節、6章47節)。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたし(イエス)のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5章24節)。
「この方(イエス)を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる」(使徒10章43節)。
信仰と希望
信仰を持って生きるということは、希望をもって生きることと結びついています。「希望ってなんですか?」といわれたら、「希望は信仰から生まれます。信仰を持つと希望が湧いてくるんですよ。」と答えることが出来るでしょう。
クリスチャンのAさんは、「あなたはガンです。それもかなりすすんでいるようなのであと3ヶ月もつかどうか」と言われました。それから4ヶ月ほどしてAさんはなくなられましたが、病院に入院している人も、お医者さんも看護婦さんも、Aさんには励まされた、といいました。
Aさんは、お見舞いに来る人にも、病院の関係者の方にも、だれにも笑顔で相手への思いやりを持って生きられました。それだけではありません。Aさんは、毎日聖書を読むこととお祈りをすることが日課となっていました。
そして新聞の記事やテレビのニュースを見て、例えば17歳の少年がバスジャックをしたという事件があると、その少年や家族のために、被害を受けた方々のために祈られました。キリスト教海外医療協力会で、アジア、アフリカなどに行って働いているお医者さんや看護婦さんのために、今日もお金を稼ぐために働いているストリートチルドレンのために、などいろんな方々を覚えて支援をしたり祈ったりなさいました。
Aさんは、聖書の詩編23編を愛読しておられましたが、それは次のようなみ言葉です。
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」
クリスチャンになれば、何の困難も苦しいこともないということではありません。困難なことや試練はあるのですが、そのようなときにも変わることのない希望をもって生きることが出来るのです。この希望は失望に終わることはありません。


第13章 救いへの道 2    理解のために

1) 主イエスが約束してくださった聖霊は、私たちのためにどんなことをしてくださるのでしょうか。

2) 信仰はどのようにして与えられるのでしょうか。

3) 悔い改めとは何ですか。

4) 神への信仰とは何か、信仰と希望について改めて考えてみてください。