序・イエスは救い主

 イエス・キリストは今から約二千年前、ユダヤのベツレヘムで生まれました。イエスがある時弟子たちに、「あなたがたはわたしをだれと言っているか」と問われたとき、シモン・ペトロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイによる福音書16章15、16節)と答えました。
 イエス・キリストはすぐれた聖人の一人であるというだけでなく、神であるということは、イエスと共に生活した人々の信仰であり、聖書を学ぶとそのことがわかります。
 イエスというのはギリシア語で、ヘブル語のヨシュアにあたり、「神は救いである」という意味です。
 キリストというのはやはりギリシア語で「油注がれた者」という意味で、ヘブル語のメシヤにあたります。ユダヤでは預言者や祭司または王が選ばれた時、頭からあぶらを注ぐ儀式をしました。ですからイエス・キリストというのは苗字と名前ではなく、イエスはキリスト(メシヤ=王、祭司、預言者=としての救い主)であると信じているということなのです。

1 イエス・キリストの誕生

 イエスの誕生という世界歴史の最も大きな意味をもった事件、人類全体に最も深い影響を及ぼした出来事は、今から約2千年前、ユダヤ(現在のイスラエル)のベツレヘムという小さな村で起こりました。
 その時、この出来事は、わずかの人にしか知られませんでした。人々は忙しく毎日の生活に追われていて、この出来事の重大さに気がつきませんでした。ベツレヘムの町は、国勢調査のために故郷に帰る旅人の群れで、ごった返していました。貧しげな若い二人の旅行者ヨセフとマリヤに注目する人などおらず、彼らはやっと馬小屋を見つけて、その一隅に宿ったのですが、その夜イエスはそこでお生まれになったのです。
 イエスの誕生のいきさつについて聖書は次のように述べています。
 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」(マタイによる福音書1章18-25節)。
 救い主誕生の知らせは、ベツレヘムの近くの野原で夜、羊の群れの見張りをしていた羊飼いたちに伝えられました。彼らは約束の救い主がもうすぐ来られることについて語り合っていたのです。
 罪を犯して神から離れた人類は、罪の結果起こったいろいろな苦しみや悩みの中にあえぎながら、もっとよい世界を望んできました。神は人類を救うために、神の子キリストを地上におつかわしになる計画をお立てになりました。その計画は、各時代にわたって、預言者を通して、人類への真の希望として伝えられてきたものでした。
 羊飼いたちは人類の問題の解決者であり、生活に希望と力と慰めを与え、人間を罪と死から救って下さる救い主がおいでになることを願っていました。
その時、天の使いが現れました。聖書には次のように言われています。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
(ルカによる福音書2章9-14節)
 ユダヤの平原にひびき渡ったこの賛美の中に、イエスを通して与えられる祝福と平和が告げられています。イエスを心に迎え入れる時に、すべての波風はおさまって、平安が得られます。キリストの精神の支配するところでは、争いはそのあとをたち本当の平和が与えられるのです。
 主イエスは人類を罪と死より解放する道を開いて下さいました。マタイによる福音書4章16節には「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」とあります。
 羊飼いたちはベツレヘムの馬小屋で、救い主キリストを礼拝しました。遠い東の国からやってきた博士たちも、おさなごキリストを拝しました。
 彼らは学者であり、富裕な階級に属し、社会的にも有力な人々で、熱心に真理を求めていました。彼らは星について学び、輝く星の軌道の背後に秘められた神のみ手をながめていました。彼らは聖書も調べました。ベツレヘムに神の栄光が満ちあふれたあの夜、彼らは天に不思議な光を認めました。
その光が消えさった時、明るい星があらわれ、空にかかっていましたが、それは惑星でも恒星でもありませんでした。そこで聖書をしらべて、「ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえが起り」(民数記24章17節)という言葉を見いだし、星を頼りに救い主を拝むために出かけたのです
 当時の最高の知識階級の人々や、名もない羊飼いたちが、同じようにイエスを拝んで喜びに満たされたことは、イエスがすべての人の必要を満たして下さることを象徴しています。イエスの降誕は「すべての民に与えられる」喜びのおとずれでした。

2 イエス・キリストはどのような方か

①  その神性と人性
イエス・キリストは人間と同じ肉体を持ち、人間と同じ生活をされました。
主イエスは自分のことをしばしば「人の子」と呼ばれました。イエスは人間の模範として、すべての点で人間と同じ条件のもとで、神の律法に従う生活を送られました。イエスの生活は、彼の教えを完全に具体化したものでした。
聖書はイエスが人であると同時に神であったことを強調しています。
 「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」。「御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、/また、公正の笏が御国の笏である。」(ヘブライ人への手紙1章3、8節)。
 主イエスは完全に人間の性質を持ってこの世に来られましたが、また永遠に存在しておられる神の子であり、神の性質を備えておられました。弟子のフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った時、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネによる福音書14章8、9節)と言われました。イエスは父なる神のすがたを示すために、地上におくだりになったのです。神というと何か遠い存在という感じがしますが、イエスの生涯をみると、神はどれほど身近で優しい愛の方であるかがはっきりわかってきます。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書20章31節)。と言われています。
 すなわち聖書の書かれた目的は、イエス・キリストが神の子であり救い主であることを信じる人々に救いを得させることでした。またイエス・キリストは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を学びしている。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)と言われました。聖書を学ぶことによって、イエスが神の子であることがわかります。
 新約聖書のはじめにある4つの福音書は、地上におけるイエス・キリストの生涯の記録です。そこに主イエスの一つの汚点もない完全な品性を見ることができます。
 イエスを目の前で知らないといって裏切ったぺトロに対しても、愛のまなざしを注がれていたこと、銀貨30枚をもらってイエスを裏切ろうとしていたユダが、人々を連れて捕えにきた時にも、「友よ」と呼びかけられた寛容さ、自分を十字架につけて、あざ笑っている人々のことについても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)とお祈りになった言葉のうちに、神の子の尊い姿をみることができます。
 また「山上の説教」(マタイによる福音書5章~7章)と呼ばれている有名な教えをはじめ多くの説教や、たとえ話、教訓をお与えになりましたが、その一つーつに神の知恵が輝き出ているのを感じます。そこには、どんな時代でも、どのような環境であっても、決してすたれることのない不変の真理が語られています。 
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24章35節)と言われたように、これらの言葉は今日においても、暗い、悩みの多い人生の光となって、人々の心を慰め、正しい道を教えています。

②  無限・永遠・不変なる神が人として来られた
ヨハネによる福音書には、イエスは「言(ことば)」であると言われています。「言」が人の考えを表すように、イエスは神を表す「言」でした。この「言」であるイエス・キリストは世の始めから存在し、創造のわざにもたずさわられました。そして神の時がきたとき、この「言」は肉体となって人間の世界に住まれたのです。次のように記されています。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネによる福音書1章1~3節)。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)。
「言は肉となって」というのは、今から約2000年前、神の御子が人としてこの世に来てくださったことを教えています。以下にある「御子」もイエス・キリストを表しています。
 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイ人への手紙1章15-17節)。
 これらの聖句からイエスは世の始めから存在しておられた神ご自身であることが明らかにされています。イエス・キリストは、神としての本質を持っておりながら、私たちを救うために、私たちと同じ人間としてこの世に来てくださったのです。

3 イエス・キリストと預言

 イエスが神であったことを証明するもうーつのことは、イエスの地上生涯について、旧約聖書に多くの預言があることです。第2章でも多くの預言があることをご紹介いたしました。主イエスが誕生される時期やその場所、民族及び、どんな目的で地上においでになるかなどについても多くの預言があります。
 多くの預言がありますが、その中のごく一部だけ、預言とその成就についてご紹介いたします。
 東の国の博士たちがイエスを礼拝して帰ったあと、ユダヤの王ヘロデは、イエスが王としてお生まれになったと聞いてイエスを殺そうと思い、ベツレヘムとその附近の2才以下の男の子をことごとく殺しました。イエスはその前に、エジプトにのがれて行かれたので無事でした。この出来事について、エレミヤ書31章15節に次のように預言されていました。
 「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」
 また預言者イザヤは、イエスの前にその先駆者があらわれて、イエスの働きの準備をすることを預言しました。その先駆者になったのは、バプテスマのヨハネです。もともと神に選ばれて、救いの計画を全世界に伝える使命を受けていたユダヤ民族が、イエスをどのように迎えるかについて、やがて来る救い主は、苦難を受けて私たちを救ってくださるお方であることが預言されていました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/」(イザヤ書53章3~5節)と言われていました。これは、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを指し示すものでした。
また、ヨハネによる福音書1章10節、11節には、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言われています。
 十字架におかかりになったイエスの衣について、「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22篇19節)と預言されていました。マタイによる福音書27章35節には、「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、」と、この預言も成就したことが記されています。
 このほか多くの預言がすべて的確に成就したことは驚くべきことです。ある人はこれらの預言はキリストのあとに書かれたものではないかと言いましたが、旧約聖書が紀元前に書かれたことについては疑う余地はありません。

第10章 イエス・キリスト(1) 理解のために
           
1)イエス・キリストの弟子たちは、生活を共にしていく中で、イエス・キリストについてどのように告白するようになりましたか。

2) イエス・キリストの神性と人性について。聖書はどのように教えているでしょうか。

3)クリスマスの出来事は、人類にとってどのような意味があると思われますか。