3番目に覚えたいことは、「神によって自分のセルフイメージを回復すること」です。ここでも大切なことは、主語が誰であるかということです。


3)神によって自分のセルフイメージを回復すること
セルフイメージというのは、私は自分のことをどのように考えているのか、自分とはいったいどういうものであるのかという理解のことです。ファリサイ派のニコデモに対して、主イエスは次のように言われました。「「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネによる福音書3章5~7節)「水と霊によって生まれる」とは、聖霊によって新しくされるということを意味しています。
聖書は、私たちのセルフイメージについて、私たちは神のかたちに造られたのだというのです。
創世記1章26、27節には次のように言われています。
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」セルフイメージを考えるときに、私はどこから来たのかということをきちんと理解していくことは非常に重要です。


例えば、私たちは、自分のコンピューターがどこのメーカーのものであって、どこから来たものであるかを知っています。しかし、自分自身がどこから来たのか、すなわち、どこに所属しているのか、多くの人はその大切なことを知らないままに、あるいはあいまいなままに過ごしているのです。
そういう私たちに神様は、イエス・キリストを通して、あなた方を創造したのはこのような神なのだと教えてくださっています。私は偶然に存在するのではありません。私は神様の深い配慮によって、神様によっていのちを与えられ、育まれているのだということです。
セルフイメージはどのようにして出来上がってくるかというと、大きな要因としては、家庭で親が子供にいろんな言葉を語る中で作られていきます。
親が子供に語る言葉の中で90%は否定的な言葉であるといわれています。「おまえはのろまだ」、「おまえは出来が悪い」、「あれがいけない」、「これがいけない」、「まだ分からないの」・・・このような言葉で細かく注意をされるごとに、自分はダメだという思いが、無意識のうちに自分のセルフイメージとなっていくのです。
そして言葉だけではなくて、親や友人や、この世のいろんな人々の言動を通してそれは自分の身についていきます。
もちろん、失敗することもあれば、注意が必要なこともあるでしょう。このときに親が人間というものをどのように理解し、自分をどのように受け入れているかということによって、子供の意識はずいぶん変わってくるものです。
では、聖書はどう言っているでしょうか。


イザヤ書43章をご覧下さい。この43章が語られたとき、イスラエルの人々は、神様に対して、人々に対して数々の罪を重ねていました。それで神様は罰をお与えになったのがバビロン捕囚でした。イスラエルは、外国の国に滅ぼされ、主だった人たちは、外国の奴隷として、「バビロン捕囚」として捕らえられてしまいました。
いわば自業自得というような状況でしたが、そのバビロン捕囚中に語られたのがこの言葉です。
みじめな状態になって、心も体もぼろぼろになっているようなイスラエルの人たちに、神様はこの言葉を語るのです。
「ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今もこう言われる。
恐れるな、わたしはあなたをあがなう。
あなたはわたしのもの心わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神イスラエルの聖なる神あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセパをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは値高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え人々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために
創造し形づくり、完成した者。」(イザヤ書43章1~7節)

神様がどのように私たち人間のことをご覧になっておられるかお分かりになるでしょうか。神様はいつも私たちに語りかけて下さいます。「私はあなたをあがなった、そのためにイエス・キリストを遣わしたのだ。わたしの愛するみ子があなたのために血を流して死んだ、このような代金を払ってあなたをあがなった、あなたを買い取ったのだ。」
私たちの人生の内にも、苦しいことや大変なことを経験するときもあります。順境の時もあれば、逆境のときもあります。パピロン捕囚をしたイスラエルの人々のような経験をすることもあるかもしれません。
しかし、そういう私たちに、神様は言われるのです。
「あなたはわたしの目には高価で尊い。私はあなたを愛している。」
これが神様のみこころです。

4)の救い主としてイエス・キリストを受け入れること
「生き生きとした生活」などというと私たちが先ず思い浮かべることは、どうしたらよいか(How)、そして自分の努力で何かをやろうとする、ということではないでしょうか。しかし、パウロの焦点は「だれが(Who)」でした。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマの信徒への手紙7:24)。
自分がほんとうにみじめな人間だと知って落ち込むまで、私たちは方法論を追求し続けます。自分の努力に頼ります。ああすべきだ、こうすべきだと自分の力に頼ります。自分には何かできると思い込んでいるのです。あるいはそういう思いで人と人とを比較したりさばいたりするのです。これこそ律法を行なう態度なのです。現在人気のある新興宗教や、自己啓発セミナー、ある種のカウンセリングなども実はそのようなことを教えています。あなたにはできるというような積極思考や可能性思考などを教えているのです。
パウロも、積極的思考と可能性思考にかけては彼の右に出る者はないほどの人でしたが、ついに私にはできない。私はみじめな人間だと告白したのです。イエスさまも、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ12:17)と言われました。
私たちは本来、信仰の世界に生きるのであって、すべてのことにおいて神さまに信頼する生き方をすべきなのですが、そのことがひっくりかえってしまって、あなたにはできる、あなたがやらなければということを教えがちです。しかし、パウロが告白したように、私たちにはできないのですから、私たちが何かをするのではなく、私たちがだれに頼るかということが大切です。
神さまを喜ばせることはできない。
パウロの答えは、25節に書かれています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」つまり、パウロが言う解放とは何かというと、イエス・キリストなのです。律法からの解放、方法論からの解放は、イエス・キリストにあるのです。ですから、イエス・キリストに感謝しているのです。自分がどうあるべきだとか、何をすべきかではなく、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストのみに頼って生きていくという恵みの世界に生きることが聖書の答えなのです。
あるがままでいい、そのままでいい、罪があっても、弱さがあっても、過去にどんな失敗をしていたとしても、そのままで私のところに来なさい、私の下に重荷を下ろしなさい、とイエス様は私たちを招いてくださいます。


5)私の人生のモデルとしてイエス・キリストを仰ぎつづけること
あなたの人生のモデルは誰でしょうか。私はこの人のように生きていきたいというような人がありますか。私は人生を豊かに生きるためには、モデルを持つということが非常に重要であると思います。私たちがモデルを持つということはどういうことかというと、
まず第1に、私たちの心の中に具体的な絵が描かれることで、これは非常に力があることなのです。オーストリアの精神医学者フランクルは、「元来精神的に高い生活をしていた感じやすい人間」が、「頑丈な身体の人々」よりも、収容所生活をよりよく耐えた」と述べています。(「夜と霧」)
精神的に高い生活をしていた人というのは、さらにいえば、希望のイメージを描いて生きることができた人です。今はこのように厳しい状況にある、しかしそのときにも将来得られるであろう豊かな世界をイメージして生きたのです。
イエス・キリストヘの信仰とはそういうことです(ヘブライ11章参照)。


イメージするときに、誰を自分のモデルとするか。誰のことをいつもよく考えているか、ということが大切です。自分は何をやってもうまくいかない。ことごとく失敗するだろう。そういうイメージトレーニングをしているとそういう人になっていくのです。人の批判ばかりしている人は、そういうふうなモデルを自分のうちに持っているのです。あの人はだめだ、あの人はこんな失敗をした、こういう態度にはむかついてくる、というような面をいつも意識して、イメージトレーニングをしている人は、自分もそういう人になっていきます。それが自分のモデルになっているからです。
私たちはイメージを描くと、自分の描いたイメージに近づいていくことが出来ます。
2番目には、イメージは私たちにアイデンティティを与えるのです。
自分が描いているイメージによって、自分が誰かということがわかってきます。
自分がなんとなくイメージを持っている、モデルを持っていると、そのモデル自身に自分が似てくるわけです。そのモデルにおこったのと同じようなことが自分の人生にも起こるようになってきます。
3番目に、イメージを持つと、あるいはモデルを持つと目的がわかってきます。目的というよりも終着点が見えてくるのです。
人生、今30歳であるかもしれないけれど、80歳になっている自分が見えてくるようになります。私たちの終着点を見たいと思ったら、黙示録の21、22章をご覧下さい。神様は、私たちに、私たちの終着点を見せてくださっています。
4番目に、モデルは私たちに方向性を与えます。
決断しなくちゃならないとき、選択しなくちゃならないとき、さてどうしょうかな、どうしたらいいだろうかというときに、自分の持っているモデルが助けてくれるんです。自分が持っているモデルのように、考えたり、選択したりする傾向があるんですね。
第5番目に、自己吟味ができる、モデルがあると自分がどういうものであるかということが分かります。
イエス・キリストをモデルとしてもつと、自分はどこにいるのだろうか。自分が今どこにいてどういう道をたどっているのかということが、分かってきます。
エフェソ人への手紙4章には、あらゆる面で、イエス・キリストをめざしていくことが教えられています。
「4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。