序・少年時代

右は現代のナザレ
イエス・キリストはその少年時代をナザレの村で過ごされました。その当時の簡単な記録がルカによる福音書2章52節に出ています。「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。少年としてのイエスは、いつもやさしい、思いやりのある性質を示され、喜んで人をお助けになりました。
イエスは家庭で神の言葉である旧約聖書を学び、その内容に精通しておられました。
主イエスは、ナザレにおいても罪のない生活を送られました。骨の折れる仕事や責任を進んで引き受け、生活の困難を乗り越えていかれました。
主イエスは、約30歳になられた頃より、家を出て公生涯と言われる救い主としての働きを始めていかれますが、その生活に入られる時、「「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイによる福音書3章17節)という天からの声を聞かれたことは、その準備としての青少年時代が、完全に神に受け入れられるものであったことを示すものです。
1 公生涯(救い主としての生涯)
① バプテスマ 罪人の立場に身を置かれた
主イエスが公の生涯におはいりになる前、預言者イザヤの預言にあったように、その道備えをする預言者があらわれて、人々の心の準備をしていました。それはバプテスマのヨハネという人物です。バプテスマのヨハネは、救い主の来臨が近づいたことを人々に知らせ、彼らが正しい道に立ちかえるようにすすめ、その決心をした人にバプテスマをほどこしていました。バプテスマというのは、神に従う決心を表明するために水に浸かる儀式です。
ヨハネはヨルダン川でバプテスマをほどこしていましたが、そこにイエスがおいでになって、バプテスマを受けようとされました。イエスを見た時、神の子であることを認めたヨハネはそれをとどめて「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(マタイによる福音書3章14節)と叫びました。しかしイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(同15節)と答えられたので、ヨハネはイエスにバプテスマを授けました。
バプテスマのヨハネが授けていた洗礼は、自らの罪を認め、その罪を悔い改めるしるしとしての洗礼でしたから、罪のないイエスはバプテスマをお受けになる必要はなかったのですが、自分を罪人の立場において、私たちの模範としてそのように行われたのです。これがイエスの公生涯の出発点でイエスの31歳の時のことでした。

② 奉仕の生活 仕えるものとして生涯を歩まれた
キリストの働きについてマタイは「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイによる福音書4章23節)と記しています。キリストの生涯は全く人々の奉仕にささげられた生活でした。キリスト自身も「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」」(マタイによる福音書20章26~28節)と言われました。
この世において権力を持つ人たちは、その権力を保持するために、権力を用いて人々を支配しようとしています。しかし、あらゆるものの上におられたキリストはへりくだってこの罪の世に来られ、私たちの重荷を負い、私たちに仕えるものとして来てくださったのです。ここに愛があります。
③ 中心となるメッセージ
「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(マタイによる福音書4章17節)。キリストの宣教の主題は悔い改めて、神の国を心の中にたてるということでした。聖書の天国、神の国、またはみ国という言葉は、いずれも神の支配という意味を持っています。そこに神の支配が確立されていくときに神の国が来たということが出来ます。神が私たちのいのちの源なのですから、神の国というのは、神のいのちが流れていて、神の愛の主権と支配が満ちているところです。
神を私たちの内にお迎えするために必要なことは、「自分自身の罪を認め、悔い改める」ことです。罪を犯していた人間が、罪を悔い改めて神に従う時、神の国は心の中に始まっていくのです。キリストは人々の心の中に恵みの王国を建てようとなさったのです。
栄光の王国というのは罪の侵入によって混乱したこの世界を、神が再び完全に最初の状態に回復して下さる天の御国のことです。これは永遠に続く至福の御国です。

④ 救い主としての条件
イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章13節)と言われましたが、罪を持った私たちを救うための救い主の条件は次のようなものがあります。
1) 罪のない者であること(神以外には罪のないお方はありませんが、神は、私たちの罪を赦し、罪と死の束縛から解放するためにそのひとり子を遣わしてくださいました。)
2) まことの人間であること(人間が犯した罪の償いは人間が償わなければなりません。そのために救い主は人間でなければならないのです。)
3) 罪は死を要求するので、罪を贖う救い主は、罪人が受けるべき罪の苦しみや刑罰を受け、神に呪われたものとして身代わりの死を遂げる必要があります。(旧約の時代には、きよい動物の犠牲によって罪が赦されることが象徴的に示されていましたが、それはやがて来られるイエス・キリストによる完全な犠牲を指し示すものでした。)
イザヤ書53章には、来るべきメシア(救い主)について、次のように預言されています。イザヤは、イエス・キリストが来られる約700年ほど前に活躍した預言者です。
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 (イザヤ書53章1~6節)

2 十字架
キリストは三年半の公生涯の終わりに十字架におつきになりました。キリストが「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:27~28)と言われたように、十字架はキリストの生涯の目的でした。あがないというのはキリストの時代には、奴隷としてつながれている者を解放するために、第三者が身のしろ金を支払うことを意味していました。キリストは人間を罪とその結果である死の奴隷状態から解放するために、十字架にかかってその生命を与えて下さったのです。
十字架上のキリストの死は、私たち人間の身代わりの死でした。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。・・・罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント人への第二の手紙5章19、21節)。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(ペトロの第一の手紙3章18節)。
預言者イザヤはキリストについて、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ書53章5、6節)
と記しています。
キリストが十字架という最も苦しい、屈辱的な刑罰をお受けになったのは、私たちを永遠の滅びより救うためでした。これは私たちに対する神の深い愛のあらわれです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
(ヨハネの第一の手紙4章9節)。
キリストの十字架は、父なる神への全き服従であり、キリストの自発的な意志から出たことでした。主イエスは、神としての本質を持っておられますから、父なる神の御心とイエス・キリストの御心は同じなのです。
ヨハネによる福音書10章17、18節には、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言われています。
キリストは何度も自分の死を預言されました。当時ユダヤの指導者たちは、キリストが彼らの期待していたこの世の王国をたてることに興味を示されないのをみて失望し、不満に思い、反抗するようになりました。そしてついにイエスを捕えてユダヤの最高宗教会議で審判にかけようとしました。人々が捕えにきた時、キリストは「だれを探しているのか」と言われました。彼らが「ナザレのイエスを」と言うと「わたしがそれである」とお答えになりましたが、その時彼らは、神の子の栄光に打たれて地に倒れました。しかしキリストは進んで彼らの手に、自らを渡され、死刑の宣告を受け、十字架につけられて亡くなられたのです。
福音書を見ると、イエス・キリストは、この世に生まれた時から、罪ある者の重荷を背負い、人々を罪と死の束縛から解放し、まことのいのちを与えるために自ら十字架に向けて歩まれたことが分かります。
聖書をお持ちの方は新約聖書の四福音書の終わりの部分に出ているキリストの十字架に関する記事をお読みになって下さい。

3 復活
キリストの生涯は十字架で終わりませんでした。キリストは御自分の死と共に、復活について弟子たちにお語りになっていました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイによる福音書16章21節)。
そればかりでなくキリストの復活は、旧約聖書にも預言されていたのです。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(詩編16篇10~11節)
キリストの復活は、理性的に考えるなら、信じるのは難しいことですが、聖書の記録と、キリストの死後の教会の歴史をみると、復活を信じることには、根拠があることが分かります。その理由をいくつかあげてみたいと思います。
① 復活は聖書の中に記録されていること
聖書は神話のようなものではなく、その歴史性が高く評価されている文献です。
キリストの復活は、四つの福音書すべてに記録されており、また初期の教会もそれが事実であることを認めています。
② 復活を証言した弟子たちは、証人として十分信頼できること
証人の資格は、第一に目撃者であること、第二にその数が十分であること、第三に証人が信頼できる人物であることです。
復活を信じた弟子たちはその目撃者でした。しかもその数は2、3人にとどまらず、500人以上でした。コリント人への第一の手紙15章3節から8節までに、初期の教会の有力な指導者であったパウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」と書いています。
このような証言をした弟子たちの人格については、聖書に対して批判的な立場をとる人でも、だれも疑問を持った人はいません。
③ 復活後の弟子たちの行動
イエス・キリストが十字架にかかられた時、弟子たちはキリストを捨てて逃げてしまいました。混乱と絶望と恐怖の中で彼らは、家の戸を閉じて隠れていたのです。ところが復活の知らせを聞き、また復活されたキリストに直接お目にかかって、彼らは大きな喜びに満たされました。弟子たちの行動に大きな変化が現れました。彼らは立ち上がって、大胆にキリストの復活を人々に告げはじめたのです。その後起こった激しい迫害の中でも、生命をかけ確信をもって「キリストはよみがえられた。私たちはその証人である」と断言したのです。
イエス・キリストの復活について、いろいろな解釈をする人がいます。墓にあったイエスの死体を弟子たちか、敵が盗んだとか、あるいはそれは弟子たちの幻覚であったとか、いろいろありますが、復活前後の弟子たちの行動の決定的な変化を説明することはできません。
作家の遠藤周作氏は、その著『イエスの生涯』で最後に「謎」という一章を書いています。その中で復活が歴史的事実であったかということを各方面から考えたあと、「なぜ弟子たちはたち直ったのか。なぜ弟子たちは当時の人々も嘲笑した復活を事実だと主張しつづけたのか。彼等を神秘的幻覚者だとか、集団的催眠にかかったのだと決めつけるのはやさしいが、しかしそれを証拠だてるものは何ひとつない。謎はずっしりと重く我々の心にのしかかるのである」と書いています。
この謎をとくためには、復活を事実と信じるよりほかにはないのです。

4 昇天、天における働き
復活後40日たって、キリストはオリブ山から天にお帰りになりました。その時約500人の弟子たちが集まっていました。最後の言葉を残されてから「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録1章9節)とあります。
天にお帰りになったキリストは、天の聖所というところで私たちの罪のとりなしをしておられます。私たちが自分の罪を悔い改めて、キリストの死を信仰によって私たちの身代わりの死として受けいれる時、私たちを罪のないものとして神の前に立たせて下さるのです。キリストは地上の生涯において人間が味わうあらゆる苦しみや痛みを経験をなさったので、ほんとうの同情と愛をもって、私たちを助けて下さるのです。
ヘブル人への手紙4章14節~16節には次のように言われています。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」。
イエス・キリストは過去の人物ではありません。今なお生きて私たちのために働き、求めるならば喜んで私たちを助けて下さる方です。キリスト教徒はたびたび残酷な迫害を受けましたが、信仰を守り通すことができたのは、今も生きておられるキリストを信じていたからです。人生のどんな経験の時でも、キリストは助けを与え、平安な道を備えて下さいます。またどんな困難でも乗り越えることができる力と勇気を与えて下さるのです。キリストとともに歩む人生は、常に希望に輝いています。
5 再臨
天にあげられたイエスを見送った弟子たちに、天使は「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節)と言いました。キリストは救いの計画を完成させるために再び地上においでになるのです。キリストの「再臨」については後の章でまとめて記しますが、この約束は各時代のキリストを信じる人々の希望でした。
イエス・キリストは、神の救いの御業を完成させるために再び来られるのです。
キリストは次のように言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ10:10、4:14、6:54)。

第11章 イエス・キリスト(2) 理解のために
1)バプテスマのヨハネは、どのような洗礼を授けていましたか。
2)イエス・キリストの宣教の最初のメッセージはどのようなものでしたか。
3) 罪ある人間を救ってくださる救い主の条件はどのようなものですか。
4) キリストの十字架はどのような意味がありますか。
5) イエス・キリストの復活が確かであることは、どうしてわかりますか。
