序 人間と自由意志
聖書に「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)とあるように、最初の人アダムとエバは、神に背いて罪を犯した結果、人間は(生命の源である神との関係が損なわれて)その魂は死んだものとなり、罪と死に束縛され、罪の奴隷の状態に置かれてしまいました。そしてアダムとエバの子孫も、同じ道を歩むようになりました。
「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9章27節)と言われているように、私たちは一人残らず、やがて肉体の死を迎え、その後神の裁きの座においてその後の永遠の状態を決定される者となったのです。
このような罪と死の束縛のうちに置かれた私たちは、どのようにして救われることが出来るのでしょうか。
芥川龍之介は、「蜘蛛の糸」という作品において、犍陀多という人物が蜘蛛を助けたために、地獄の苦しみから逃れるために蜘蛛の糸を与えられたという話があります。犍陀多は、自分が蜘蛛の糸につかまって天国まで登って行こうとするのですが、下を見るとたくさんの人たちが同じ糸につかまって上に登ろうとしている。それを見て犍陀多が下にいる人たちに、この糸から手を放すように言うと、蜘蛛の糸が切れて犍陀多も下に落ちてしまうというお話です。
自分だけが助かろうとして、下にいる人たちへの心ない言葉によって犍陀多も地獄に落ちてしまうというのですが、そもそも一つの良いことをすれば、天国へのパスポートをいただけるようなものなのでしょうか。
私たちはこの世の人生において様々なことを考えたり行ったりしています。神様は、そのような私たちの人生のすべてをご存知で、心の中で思ったこともすべてを知っておられるお方です。私たちのこの世の生活のすべてをご存知である神様の前に、あなたは完全に正しく清い人生を送ってきたと言えるでしょうか。
例えば、犍陀多のように一つの良いことをしたために、神様はあなたの罪の行為をなかったことにしてくださるでしょうか。
聖書を読むと、神様は、私たちを救うためにこの聖書を与えて下さっていることが分かりますが、それは、私たちの行いや努力によっては罪と死の束縛から逃れることは出来ないことを教えています。私たちの思いや行いを考えてみるならば、良いことをしてきた以上に、神を悲しませるようなことを、年を経るほどに増し加えているというのが私たちの現実であることを教えられます。

1 すべての人が神の前に罪を犯している
私たちが、「罪」ということを考える時、何を基準として考えているでしょうか。人と人とを比べて、あの人よりはましだと思ったり、法律に背くことを考えることが多いのではないでしょうか。これまでの人類の歴史を振り返ってみても、また私たちの日々の暮らしを考えてみても、法律というものは、幾度となく変わってきており、それぞれの時代や民族、国の違いによって様々です。
また、私たちの日々の生活を振り返ってみても、自分自身の考え方や人生観というものは移り変わって来たのではないでしょうか。人間が考えるもの、作るものの中には不変の基準などというものは存在しないことが分かります。
まことの神は、無限・永遠・不変の霊であるということを以前記しました。神の言葉である聖書の言葉は、どんなに時代が移り変わっても変わることがなく、神の基準こそが確かな基準なのです。この絶対的な基準に照らして私たち人間を見た時、神は次のように言われているのです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ人への手紙3章10~12節)
神の基準に照らしてみるならば、「正しい者はいない。一人もいない。」と言われているのです。神は完全な聖であり義であるお方です。その神の基準によれば、私たちがほんのわずかの罪と思うようなものでも、死に値する罪なのです。
主イエスは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイによる福音書5章22節)、また、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイによる福音書5章28節)とも言われました。
皆さんは、「罪」というとどんなことをイメージするでしょうか。
「罪と死」は、当たり前のことだと考えている方が多いかもしれませんが、これは人間本来の姿ではありません。神がはじめに創造されたアダムとエバは、罪のない存在であり、嘘をついたり、ごまかしたり、盗んだり、人を傷つけるようなこともなく、互いに愛し合い、神の恵みのうちに、神との快い関係の中に生きていたのです。そこには「死」もありませんでした。けれども、前の章で見たように人間が神に背いた結果、罪と死が人類に入ってきてしまいました。それ以来、人間は罪と死の束縛の中に置かれているのです。
罪の中にある人間は、自分自身を創造し、育んでいてくださる神を認めることが出来ませんし、自分自身の罪を認めることも出来ず(神によって教えていただかなければ自分が罪と死の束縛の中にあることをも分かりません)、あたかも自分が神であるかのように考えたり、生活をしたりして、自分は神なしに生きていくことが出来ると考えてしまいます。このような考えを持っていることが、すでに罪の束縛の中にある姿を現しています。
すべての人がこの束縛から解放される必要があるのです。

2 罪と罪がもたらすもの
「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。」(ヨハネの第一の手紙3章4節)と言われています。法に背くというのは、神の基準である律法を犯すということです。
多くの人は、自分が悪いことをしてしまうこともあることは自覚していますが、罪の自覚は希薄なものになっていますので、自分は刑務所に入ったこともないし、前科があるわけではないから、まだましな方だくらいに思っている様です。神の前に思いと行いによって犯してきた罪がどれほど深刻なものであるか分からないし、そうしたことは「臭いものにはふた」という感じで直視しようとしないのです。
けれども、神の基準に照らしてみるならば、「正しい者はいない。一人もいない。」と言われているのが現実なのです。罪ある者だからこそ「死」を迎えなければならないのです。人間の罪ある姿について、聖書には他にも「善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。」(コヘレト7章20節)。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの第一の手紙1章8~9節)。と言われています。
罪は死―すなわち神との断絶―のみならず、あらゆる災いや病気、老い、憎しみ、不和、恐れ、不安などあらゆる問題の根です。それは、私たちが意識していなくても、生活を暗くし、人間関係にもいろいろな問題を起こし、私たちの人生に混乱をもたらし、誤った方向に私たちを導くのです。

3 罪の具体的なあらわれ
① 品性の汚れ、神を求めようとしない
罪を犯す前に人間は清く、神と交わることを喜びとしていました。しかし罪を犯した人間について聖書には、「わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。」(イザヤ書64章5~6節)とあり、すべての人間の行為は罪によって汚れています。たとえ私たちが正しい行いをしたと思っても、もしそれを誇りに思ったり、人と比較して倣慢(ごうまん)になったりすれば、神の前には汚れたものとなるのです。そこで神は 「洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1章16~17節)とすすめておられます。
② 私たちのすべてに及んでいる病
キリストは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 (ルカによる福音書5章31、32節)と言われました。罪はいわば私たちのすべてに及んでいる病です。罪は人間が神のことを悟ることができないようにします。イザヤはそのような状態を「この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。」(マタイによる福音書13章15節)と言いました。

③ 罪に束縛(支配)される
「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハネによる福音書8章34節)。「自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。」(ペトロの第二の手紙2章19節)。罪に負けた人間は、罪の力に支配されています。自分の力でこの罪の支配からのがれることはできません。罪は私たちを支配する力となっているのです。
「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ローマ人への手紙7章18~21節)
ここでパウロは、自分自身の姿を顧みて、人間は、心のうちにある悪への傾向に打ち勝つ力がなく、望まないのに悪を選び行ってしまうみじめな存在であることを告白しています。「わかっているけどやめられない」という現実をあなたも経験されたことはないでしょうか。
④ 罪は、神との断絶をもたらし、死をもたらす
罪がもたらす影響の中で、最も大きな、そして根本的な問題はここにあります。罪と死は常にセットです。罪のない人は死ぬことはありませんが、すべての人は罪を犯したために、その報いとしての死を迎えることになるのです。
ローマの信徒への手紙6章23節には、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と言われています。
この状態から私たちを救いだす計画が、すでに立てられていたのです。

4 救いの計画
人間は、自分の力や知恵によって罪の問題を解決することが出来ません。それで、神の方から救いの御手を差し伸べてくださいました。聖書を見ると、人間が罪を犯した直後に、神はその救いの御計画を伝え、それをこの歴史のうちに実現しておられることが分かります。神様であっても、死に定められた人間を、いかにして救うかはむずかしい問題でした。律法を変更するか、なくしてしまうことができれば、刑罰としての死もなくなりますが、それでは神の正義を満たすことは出来ません。そこで人間を救うためには、だれかが人間の代わりに死んでその刑罰を受けなければなりませんでした。これを「贖い」と言います。
レビ記25章には、「贖い」について記されています。贖いは、古いイスラエルの法律用語で、買い戻すという意味を持っています。誰かが貧しくなって土地を売ると、その親戚が買い戻す義務を負う。あるいは、貧しい人が身売りして誰かの奴隷となった場合、その人の近親者が、その人を買い戻すことが出来るということが記されています。
人間の代わりになって、罪を贖うことが出来るものは、①罪のない者でなければなりません。さらに、②人間の罪を贖うためには、同じ人間でなければなりませんでした。そして、③罪のないお方が、人間が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けて、死をもってその罪を償う必要がありました。
神の救いの計画は子なる神が人間の代わりに死ぬことによって、人間を死から救うというものでした。この計画は、父なる神にとっても、子なる神にとっても大きな犠牲でした。全宇宙の支配者が、地球という全宇宙にくらべれば、チリよりも小さい世界に住む人間のために、地上にくだって、死という刑罰をお受けになるということは、考えることもできないことでした。
しかし神の愛はいかなる犠牲をもいとわないのです。ヨハネによる福音書3章16節はその愛を次のように語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

第9章 救いの計画 理解のために
1)「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とはどういうことを教えていると思いますか。
2)神の基準によると、すべての人が罪人であると言われていますが、あなたは自分が神の前に、罪ある人間だと思われますか。
3)罪は私たちにどのようなことをもたらしますか。
4)神の救いの計画は、どのようなものでしょうか。
