「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカによる福音書6:36)。
序 人間性喪失の時代
現代は「人間性喪失の時代」と言われています。苦しんでいる人がいても、そんなことは見てみぬふりで、人の痛みが分からない。分かろうとしない。アパートのとなりで亡くなってから何日もたっているのに、「そんなこと知りませんでした。」親が赤ちゃんをコインロッカーに置き去りにしたり、子供を平気で虐待する。そして、そうした感情をコントロールすることができない。一緒に笑ったり、泣いたり、悲しんだりすることができない。世代間のギャップ、心と心のふれあいやきずなというものが、次第に失われつつあるように思われます。


マザー・テレサが来日したときに、私も彼女の講演を聞く機会を与えられましたが、そのとき次のように言われた言葉が印象に残っています。
「この国は豊かになったと聞いたが、愛に飢えている人たちがいっぱいいることを、私は知った。愛に飢えている人が多いこの国は、私は貧しい国だと思う。」
これはもう20年以上も前にマザー・テレサがいわれた言葉ですが、日本のありようを見るときに、愛に飢えた人がどんどん増えているというのが実情であるように思われます。これはキリスト教会の責任であるということもできるのではないでしょうか。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネの手紙4章7〜9節)
1、心と出会うこと、感情の大切さ
私たちキリスト者はイエス・キリストを目指して成長していくものであると聖書に記されていますが、聖書を読むと、イエス・キリストが非常に感性の豊かなお方であったことが分かります。


はじめに「感性」とは何かということを考えておきましょう。
広辞苑によれば、「感性」とは、
1)外界の刺激に応じて感覚、知覚を生ずる感覚器官の感受性
2)感覚によって呼び起こされ、それに支配される体験。したがって、感覚に伴う感情や衝動、欲望をも含む
また、「感受性」については、
1)外界の印象を受け入れる能力、ものを感じ取る力
2)生物体において、環境からの刺激により感覚及び反応を誘発されえる性質。以上のように説明されています。
これだけの説明ではよく分かりにくいのですが、感性は人間の心と密接な関係があります。
感性の豊かな人とは、喜怒哀楽の感情が豊かな人であり、喜び、悲しみ、痛み、感動、愛の心が豊かな人であるということができます。
エゼキエル書36章26節には、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお敵たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」と言われておりますが、キリスト者になるとは、神によって新しい心と新しい霊を受けることです。それは、キリストの霊を受けることであり、キリストのように愛し、キリストのように憐れみ、キリストのように人々の喜びや悲しみを自分のこととして覚えていける霊を受けることであるということができます。
福音書を見ると、例えば、目の見えない、人、悪霊につかれた人、身体の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、幼児などがよく出てきます。なぜならば、イエス・キリストは憐れみ深いお方であり、感性の豊かなお方であって、そうした人々の心の叫びに心をとめられたからです。


イエス・キリストは、人の心との出会いを非常に大切にされました。
スーザン・タマールという心理学者は次のように述べています。
『流されなかった涙は、心の中にたまり、やがて心を覆い、心の動きを麻痺させてしまう。』
悲しみの感情が解放されないと、自分の存在そのものを悲しむようになってしまいます。これは、気持ちを表すという事がとても大切なのだということです。
笑うということも同じことで、笑いが表現できるという事は非常に大切な事です。イエス様は、誰でも幼子のようにならなければ神の国を見る事ができない、と言われましたが、幼子は自分の心をそのままに表現することが出来るやわらかい心をもっています。
笑える状態、泣ける状態、見て驚いたり、触って感動したというのは無心になっている事です。童心に返るというときには、その人の年齢も肩書きも忘れさせ、何のわだかまりもない精神状態にしてくれるのです。
イスラエルに行きましたとき、ユダヤの方々と一緒に食事をした後で、手をつないて賛美の歌を歌ったり、手をつないでダンスをしたことがありましたが、彼らは感情表現が豊かであり、互いの感情をともにすることをよく知っている人たんだなあと思いました。
彼らはよく笑う人ですが、歴史的を振り返ってみるならば、彼らは最も苦しんだ人たちだといえるかもしれません。幾度も迫害にあった人、虐げられた人であり、2000年にわたって自分の国を失ってしまったのはユダヤ人でした。
しかし彼らはよく笑う人たちです。アメリカのコメディアンの何と80%はユダヤ人だといわれています。牢屋に入れられても笑う。迫害にあっても笑う。つらい目にあってもストレス状況のもとでも、あるいは難しい人間関係の中でも、笑う。笑う事によって乗り越えて行く。笑う事によって神の民である事、笑う事によって神の贖いを表現していくわけですから、私たちキリスト者はもっと笑い、もっと泣いてもいいんだろうなと思います。
イエス・キリストは、「多くの痛みを負い、病を知っている。」お方であるとともにユーモアと喜びに満ちたお方でもありました。
同じユダヤ人の中でも、聖書に出てくる律法学者、パリサイ人たちは、いわばエリートであり、合理的な人でした。厳格に聖書の戒めを守ろうとした宗教家でした。しかし、彼らのこころは石のこころであり、他の人の心の思いにふれることが出来ない人であり、キリストのように人の痛みを覚えて泣いたり、喜んだりすることができない。こころと出会うことが出来ない人たちであったように思われます。


よきサマリや人のたとえといわれるイエス様のたとえ話に出てくる祭司やレビ人は怪我をして倒れている人の心を分かろうとしない、感性の乏しい人たちでありましたが、サマリヤ人は、人の痛みを自分のこととして受け止める豊かな感性を持っていたのです。
「あの人、知的ですね」と言うと何かよく聞こえますが、「あの人感情的な人ですね。」というのは誉め言葉ではありません。確かに、感情的に怒るとか、情におぼれるといったことは避けたいことですが、感情そのものは非常に大切なものであり、感情のない人間というものは、人間らしさを失ってしまうのではないかと思われます。
神のかたちに造られた人格を持つものとして、感情が与えられ、喜びや悲しみや感動などを共有できることも、神から与えられた大きな恵みといえるでしょう。
なぜ感情が枯れていくのでしょうか。
第1に、私たちが大切な人生観、生きる目的を持たなければ私たちの感情は枯れていきます。
いつも自分は中立でいる。いつも白か黒かはっきりしない。
私はこういう人生観のうちに、自分をかけて生きていくんだ、というものを持たないと、私たちの感情は枯れていきます。
第2番目に、愛する人を持たなければ、私たちの感情は枯れていきます。
私たちは、愛する人を思う。そして愛する人に触れる。愛してしまうとその人のことを心配する。そして悩む。その人のことで傷つく。その人のことで痛む。だから、愛する人を持たない。愛する人を持たなければ笑う事も少ないだろうけれど、傷つく事も悲しむ事も少ないことになります。
第3番目に、信じるものをもたなければ感情は枯れていきます。
私たち日本人は、いろいろな出来事に直面したとき、よく考えなさいとよく言いますけれど、信じなさいということは少ないようです。


信じるということと考えるということはどういう事でしょうか。
私たちは、礼拝の時によく使徒信条を告白します。
『われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子イエス・キリストを信ず。われは聖霊を信ず。われは公同の教会を信ず』
どうして私たちは、われは天地の造り主、全能の父なる神を考える』と言わないのでしょうか。イエス・キリストを認めますとは言わないのでしょうか。
私たちは考えますとか認めますとは言わないで、信じるというのですが、考えるというのは私たちの頭の行動なのです。考えるという場合には、私たちは、考える対象も、自分の考えもころころかえています。考えるという領域においてはそれでもかまわないわけです。
ところが信じたらどうでしょうか。
信じます、ということは頭の行為ではなく心の行為であり、信じるということは自分自身を投げかける、自分の存在をかけて信じることになります。
ある方が証の中で、「私はなかなか神を信じる事が出来なかった。それは神がどういう方かわからないからというのではなくて、この神様を信じたら自分が変わらなければならない。すなわち、自分よりうえの存在である神に自分が従わなければならない。という事がよく分かっていたからだ。」とおっしゃいました。
考えても自分はそのままです。認めても自分はそのままです。
しかし信じたら自分が変わらざるをえないのです。
この神様を信じたら自分が変わっちゃう。変わらざるをえない。そういう自分の気持ちと葛藤しながら、み言葉によって、くだかれて信じるようになられたわけですが、信じるとか愛するということは、もちろんそこに考えるということも含まれますが、それよりも深いところでは心の領域であり、自分をかけることであります。
それは合理的に考えて、自分の枠内で、自分の世界の中だけで考えてやるということではありません。愛したり信じたりすると、その相手によって自分が変わってしまいます。その人のことを心配する、その人のことで傷つく、その人のことで痛む、その人のことで失望したり絶望したり、喜んだり笑ったり、泣いたりする、そして自分が変わってしまうわけです。
しかし、信じるものを持たないならば、評論家や傍観者でいるならば、感情は枯れていきます。イエス・キリストが、例えば目の見えない人のところに出かけでいったのに対して、パリサイ人や律法学者たちは傍観者でした。彼らは、参加しない。手を汚さない。中に入っていかない。だから感情はかれていくわけです。
ですから、心を豊かにするものは何だろうかというと、かけがえのない大切なものを持っているということです。愛する人を持つ事です。私はこの人を愛する。愛する人を持ったら泣くこともあるし、傷つく事もあります。心が痛みます。喜びもあるが悲しみもあります。満たされる事も多いが傷つく事も多いものです。
そんな人間がすばらしいと思います。


聖書の中には、感情の表現がたくさん出てくるとともに、そうした感情を表すことも随所に述べられ勧められています。例えば、
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4章4節)。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」(詩編103編1節)。
「憐れみのこころ…寛容を身につけなさい。」(コロサイ3章12節)。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12章15節)。
「踊りをささげて御名を賛美し太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。」(詩編149編3節)。


第26章 感性を豊かに  理解のために


1) 現代は人間性喪失の時代とも言われていますが、「人間性」とはどういうものだと思いますか。

2) 「感性」「感受性」や「心との出会い」ということについて、あなたはどのようにお感じになりますか。

3) 感情が枯れていくということについて記しましたが、あなた自身はこのことについてどのように思われますか。