序 信仰のリアリティ
インドネシアで宣教師をしておられた入船尊先生は、”インドネシアで最も大きな発見は、実は宗教であった。…今日の日本では、宗教を持っているというと、何か人生の深刻な悩みがあったのではないか、というように考えられがちだが、インドネシアのような社会では、人間が人間であるための当然のことのように考えられている。…日本で一番欠けているのは、神との関係のリアリティである。」といっておられます(「宣教師としてインドネシアに遣わされて」より)。
人間が人間らしく生きるためには宗教が必要だということでしょう。
このような宗教に対する受け取り方は、インドネシアだけではなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなど世界のほとんどの国々に共通するものということができます。

日本にも宗教はたくさんあるのですが、仏教はほとんど葬式仏教といわれように、ビジネスのための仏教のようになってしまっており、神道も地の新興宗教も人間の現世利益と欲望に仕えるものになってしまっている感があります。
人間が神のようになろうとする宗教は、時代や風潮に流されやすく、ある民族に偏ってしまう傾向があります。確固たる人生の基盤や、人生の目的を見極ることが難しいのです。信仰とは、自分の人生のよりどころをどこに持つかということであり、自分や人間を超えた神により頼んで生きることです。
真に頼りがいのあるお方、私たちの弱さを受け入れてくださる方、そしてイエス・キリストにおいて深い愛を表して下さる神こそが私たちの主であることを聖書は教えています。
実に不思議なことですが、聖書において言われている神の約束の言葉は、これまで一つ残らず実現してきています。私たちは弱さがあったり、限界があったりしますが、神は決して私たちを裏切ることはありません。

1、生きた信仰のために
生きた信仰というからには「死んだ信仰」もありそうですが、あなたも是非、生きた揺仰を追及してください、そうすれば、信仰は人生の力の源であるということが実感できるようになるでしょう。
生きた信仰をえるためにはどうしたらよいのか、いくつかのことをあげてみます。
1)神の前にひれ伏すこと
2)神を父として認めること
3)神によって自分のセルフイメージを回復すること
4)私の救い主としてイエス。キリストを受け入れること
5)私の人生のモデルとしてイエス・キリストを仰ぎつづけること
以上のことが、これからのあなたの生涯において、大きな生きる力になると確信しています。これらを簡単に説明してみましょう。
1)神の前にひれ伏すこと
人間が失敗をするときはどういうときかというと、自分が神のようになろうとしたときです。人と人とを比較して相対的な自分の物差しを持って生きていくときの人生の土台は頼りないものです。しかし、変わることのない神、私たちを超えた方のうちに自分をゆだねて生きる人生には安心があります。
神の前にひれ伏すとは、神を神として受け入れ、自分の心のうちに、イエス・キリストをわが主、わが神としてお迎えすることです。自分の心の王座を神に明け渡していくことです。具体的には、聖書を人生の基準とし、礼拝において絶えず自らを振り返り、みことばを聞き、祈りながら人生を生きるようになることです。
私たちは、聖書において表されている私たちの神が、どのような神であるのかを知れば知るほど、感謝と喜びがその心を包むようになるでしょう。

聖書が分かるために何よりも大切なことは、神の前にひれ伏すことです。
詩編51編19節には、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編19節)と言われています。神様が私たちに求めておられることは、ここでは、「打ち砕かれ悔いる心」と言われています。これは、神にノックアウトされた者、神の前に降参した者、打ち砕かれて自分の無力さを心から自覚した者と言ってもよいでしょう。これがなくては、たとえ聖書に関する何万冊の本を読んで、聖書を全部暗記したとしても、聖書が分かったことにはなりません。
聖書は、私たちにいのちを与えるために書かれたのですが、聖書によって私たちがいのちをえるためには、神を神として認め、神を信頼して自らをゆだね、神の前にひれ伏すことが必要なのです。
聖書には、このように打ち砕かれ、自らの罪を認め、悔い改めて神に立ち帰り、従って言った人たちのことが随所に記されています。
例えば、放蕩息子のたとえに出てくる弟息子は、財産が無くなってくると、働かざるを得なくなりましたが、自分でも不本意な豚飼いの働きを余儀なくされ、飢饉になり、いなごまめを食べる豚を見ていて、「彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」(ルカによる福音書15章17~19節)と考えるようになるのです。

弟子のペトロは、イエス様が十字架につけられる苦難を予告なさったとき、「そんなことがあってはなりません」とイエスを諌めたとき、イエス様から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16章23節)と激しい言葉を聞かされました。また、ペトロは、どんなことがあっても命を懸けて私はあなたについていきますと言っていましたが、実際に主イエスが捕らえられて十字架につけられる時になると、3度もイエスを否んでしまうのです。
「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26章69~74節)この時のペトロの心は、恐れと不安に占められていたことでしょう。
彼は、これから苦難を経験するであろうことを予感した時、「ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」(マタイ26章35節)と言いました。自分の信仰に対して自信を持っていたとも思われますが、そのような自身が打ち砕かれたのがこの時です。自分はなんと弱い者だろう。自分の力や知恵によっては、神に従い得ないことを、彼は身をもって教えられたのです。
トマスという弟子は、イエス様の復活を決して信じないと言っていましたが、実際に復活のイエス様に出会ったときに、彼は、イエス様の前にひれ伏して、「わが主よ、わが神よ」と告白するようになるのです。
「ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。」(ヨハネによる福音書20章25~28節)
神の前にひれ伏す姿として、具体的には「祈る」ことがあげられます。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:13)といわれているように、絶えず神に心を向けて祈りましょう。
「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ書6:8)

2)神を父として認めること
今に限ったことではないかもしれませんが、精神的な病を持った人が増えています。こうした人たちの多くは、自分自身をも他の人をも信頼することができません。「自分は生まれてこないほうがよかった」「自分の将来は暗い」というように考えている人がたくさんおられます。
ところが、こうした人たちが「親換え」を経験して、自分の父は聖書が教えている神様だということが分かってくるにつれて、しだいに癒されていくのです。
主イエスは、ご自分が父なる神との豊かな交わりの中で、父に従い抜いておられることを語るとともに、私たちにも天の父と共に生きるように教えてくださいました。十字架におかかりになる直前に、弟子たちに次のように言われました。 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(マタイによる福音書16章31~32節)「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」ということが、イエス様の生涯のすべてを物語っていると言っても過言ではありません。
これは、私たちについても言えることです。漠然とした神がともにおられるということではありません。この世界を創造し、私たちにいのちを与え、あらゆるものを今日も育み、守り、支えていてくださる方、さらに、私たちを罪と死の力から解放し、その罪を赦し、贖うためにひとり子イエス・キリストをも与えて下さり、私のところに来なさいと、あの放蕩息子を招いた父親のように、あなたを招いていてくださるのです。このような神様の愛があなたに注がれていることを認めてください。このお方が私の父なる神であると認めることです。

アダムとエバが神に背いて罪を犯したとき、神から隠れようとしてことを覚えていますか。そのように人間は、神に対する恐れを持っています。罪ある者は無意識に、聖なる神のもとから逃れたい、隠れたいと思うものです。
しかし、聖書には、「恐れるな」という言葉が随所に出てきます。そしてイエス・キリストは、次のように言われました。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章10~13節)
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というイエス様の言葉は、私たちにとって大きな慰めです。罪のないものは一人もいません。私たちも様々な弱さを持つ者であり、神様に対しても申し訳ないことを数々犯してきたのではないでしょうか。しかし、私たちの天の父は、そのような者を招き、神の恵みのうちに生きるように、イエス・キリストをお送りくださって神の愛を伝え、罪の贖いを実現し、聖霊を送って私たちとともにおられるのです。神がともにおられるという約束は、私たちにとって大きな慰めとなり励ましとなるでしょう。
「「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」」(マタイ28章18~20節) 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)
マタイによる福音書末部にあるこの御言葉は、主イエスが復活された直後に、弟子たちに向かって語られた言葉です。しかしこの主イエスの呼びかけは、復活直後に限定されず、むしろ今日に至るまで、どんな時代の中にあっても、主を信じる群れに呼びかけられている御言葉です。天と地の一切の権能を授かっておられる方が、共におられるということは、実に大きな慰めであり励ましであるといえます。
神を自分の父として受け入れるということは、自分は何に所属しているのか、自分はどういうものであるか、というアイデンティティに関係してくることです。
実は、私たちが何によって生きる力を与えられるかというと、それはアイデンティティによるのだといってもよいでしょう。アイデンティティは、自己同一性と訳されていますが、わたしはあの人に所属している、わたしはあの人につながっている、あの人と一つだという気持ちを持つことをアイデンティティといいます。
自分は誰であるかということを理解するときに、自分は誰とつながっているかということによって自分が誰であるかがわかるのです。
自分の心を一生懸命調べて、分析して、自分は誰だといってもなかなかわからないのですが、自分の家族のつながりや、友人とのつながり、教会にきているというようなつながりを理解することによって、初めて自分が誰であるかということがわかるようになるのです。
イエス様の力がどこからきているかというと、それは間違いなくアイデンティティです。わたしは父なる神とつながっている。わたしが話した言葉は、わたしが語ったことではなくて、わたしのうちにおられる父が語ったんだ。と言っておられます。

第24章 生きた信仰をめざして 理解のために
1) 神との関係のリアリティーとはどういうことだと思いますか。
2) 生きた信仰に生きるために、どのようなことが必要だと思いますか。
3) 神の前にひれ伏すとはどういうことでしょうか。それによって何が生まれてくるのでしょうか。
4) 神を父と認めること、神様とつながる(所属する)ことは、その人の人生をどのように変えていくと思いますか。
